No.14 2008年12月
『なぜ私だけが苦しむのか』
- 現代のヨブ記 - ラビ・クシュナー著
滝沢 陽一
これはユダヤ教の若いラビがその体験と信仰から、苦難の問題について書きつづった書物(岩波現代文庫、257頁)です。 原書は「WHEN BAD THINGS HAPPEN TO GOOD PEOPLE(悪いことが善い人々に起るとき)」(1981年)
なぜ私はこの本を書いたのか
これは、神や神学についての抽象的な本ではありません。
もったいぶったことばや知的な言いまわしで問題をすり替えて、私たちにふりかかる苦しみは、当人がそう思いこんでいるにすぎない、などと言いくるめようとする本でもありません。
これはきわめて個人的な書物です。
神と世界の善を信じ、人びとにもそのことを信じてもらいたいと人生のほとんどを捧げ、それなのに個人的な不幸にみまわれ、
神や神のなさることについて教えられてきたすべてのことを根底から考え直さねばならなかった、そのような者によって書かれた、きわめて個人的な書物なのです。
私たちの娘のエイリエルが生まれた時、息子のアーロンは三歳の誕生日を迎えたばかりでした。
アーロンは聡明で元気な子供でした。二歳にもならないうちに、たくさんの恐竜の名前を覚えていましたし、恐竜が絶滅したことを大人たちにしんぼう強く説明していたものです。
アーロンは生後八ヶ月で体重の増加がとまり、一歳になったころから髪が抜けおちはじめました。
その頃から妻と私は、アーロンの健康について危惧を抱きだしたのです。
著名な医師がアーロンを診察し、その症状になにやらむずかしい名前をくっつけて、アーロンの身長はあまり伸びないが、その他の点については正常に発達するだろうと話してくれました。
娘が生まれる少し前に、私たちの家族はニューヨークからボストンの郊外に引っ越しました。
そこで私はユダヤ教のラビに就任したのです。近くに子供の成長障害を研究する小児科医がいることを知り、私たちはアーロンを連れて訪ねてみました。
二ヶ月後──娘の生まれた日──に、その医師は産科に入院中の妻を訪れ、アーロンの症状は「早老症」(progeria)と呼ばれるものであると私たちに告げたのです。
彼はことばを続けました。アーロンの身長はせいぜい一メートルにとどまり、頭や体には毛も生えず、子供のうちから小さい老人のような容貌を呈し、十代の始めに死ぬだろうと・・・
こんな宣言を受けて、いったいどうすればいいというのでしょうか? 当時の私は、若く経験の乏しいラビでした。
のちには嘆き悲しむ人びとに接する体験も多く得ましたが、そのころはそうした問題にも不慣れでした。なによりも、この不公平な出来事に対する深い痛みに私はとらわれていました。
私は悪い人間ではなかった。神の前に正しいとされる生き方をしようと思っていた。それなのに、なぜ私の家族にこんな不幸がおそいかかってきたのでしょうか?
もし神が存在するなら、愛だの赦しなどと言う前に、ほんのわずかでも公平をわきまえる神が存在するのならば、なぜ私をこんな目にあわせるのでしょうか。
ほとんどの人と同じで、妻も私も、神は実の親と同等か、あるいはそれ以上に親身に人のめんどうをみてくれる全知全能の存在であると信じていたのです。 もし、人が素直で従順であれば、神はきっとそれに報いてくれるだろうと信じていたのです。
ほとんどの人と同じで、私も人生に影をおとすさまざまな出来事について知っていました──若者が交通事故で死に、 元気で愛にあふれた人が突然の病気のためにしかばねのようになってしまい、親類や近所の家庭に生まれた身体障害や精神障害の子供たちのことが、 ひそひそとささやかれます。しかし、私は決して神の正義を疑ったことがありませんでしたし、神の公平さに疑問を抱いたこともありませんでした。
そんな私たちが、アーロンのことについて、早老症について、医師の説明を受ける日がやってきたのです。それは、私がかつて学んだことのすべてと相容れないものでした。 私はただ心の中で、「こんなことが起きていいはずがない。世の中はそんなものではないはずだ」となんども繰り返すだけでした。 このような悲劇は利己的で不誠実な人にふりかかるものであって、そのような人を慰めるべく、神の愛なる赦しを説くのがラビである私の役回りなのだ、と。
友人たちは親切にしてくれましたが、十分な力になってくれたとは言えません。 また、私の読んだ本は、神の栄光を守ろうとすることに重きを置き、教義的な証明でもって、悪はほんとうのところは善であり、悪はこの世界を善いものにするために必要なのだと述べるのみで、 死につつある子供を抱える親たちの苦悩や困惑を癒そうとするものではありませんでした。
この本は、そういうたぐいの本ではないことを願います。私は、人の悲しみを体験した人間であり、根本的に神を信じる人間です。
死や、病気やけがが、そして拒絶や失望によって人生に傷ついた人のために、また、この世に正義があるなら、
こんなことが自分に起こるのはまちがっていると考えている人に読んでもらいたくて、この本を書きました。
そのような人にとって、神とはいったいなんなのでしょうか。そのような人はいったいどこに、力や希望を求めればよいのでしょうか。
『善良な人に悪いことが起るとき』
(原書名。1981年。第二版89年)
「第二版に寄せて」より。
私はベストセラーになるなどとは夢にも思っていませんでした。そうなった自分に驚いています。
1981年に初版が発売された時点では、せいぜい二百人か三百人くらいの友人、知人、それに親族の者が買ってくれるのが関の山だろうと思っていました。
ところが、ベストセラーになり、十か国語に翻訳され、オランダでは三年続けてノン・フィクション部門の一位を保っていました。
この本の読んだ多くの方々からの手紙、電話、そして出会いを通して、私は私が思っている以上に多くの人たちが心に傷を負いながら生きていることを知りました。
それまで私は世界中、どこを見ても何事もなく平穏無事な人たちばかりのなかで、私たち夫婦は子供を亡くし、普通の人ではないのだと感じていました。 しかし、今は、世界に「普通の」人びとというのはごく少ししか存在していないことを知りました。
過去八年を通して私の学んだことで、自分では知っていると思っていたのに理解していなかったことがあります。
世界にはじつに沢山の人びとが心に痛みを抱きながら、そのほとんどの人びとの心の痛みに対して伝統的な宗教はあまり役に立っていないということです。
私のところには次から次へと、牧師や神父あるいは同じ信仰の仲間の言動に、以前にも増して心の傷を大きくし、悲しみが増してしまった体験を綴った手紙が寄せられています。
宗教があまりに役に立っていないことの理由は、たぶん、彼らの痛みを和らげようとするよりも、神を正当化し弁護することに向け、 「悲劇も本当は良いことであるし、不幸に思えるこの情況も本当のところは、神の偉大なご計画の中にあるのだ」と説得しているように思います。
悲しみのただ中にある人にとっていちばん必要なことは、説教の言葉などではなく慰めを与えてくれる人なのです。 温かく抱きしめてもらえたり、少しの間でもだまって聞いてもらえたら、どんなに学識豊かな神学的説明を聞かされるより勇気を感じるものなのです。
また、私は、人間の精神あるいは魂の信じ難いほどの回復力というものについて教えられました。
多くの人たちから、私は、人びとが悲しみの中でも信仰や生きようとする心のあり方の故に、崩れ去ることなく生き抜いている事実に教えられました。
こうした悲劇を通して彼らは、人生は善であり聖なるものであり、病気や死が悲劇にすぎないことを理解していったのです。
私は事故や凶悪な犯罪にまきこまれ人生をめちゃくちゃにされてもなお、信じられないほどの力で、それもただ単に耐えて生きながらえているというのでなく、
自分の人生を積極的に生きている多くの人びとに出会いましたし、子供の頃に受けた虐待の故の心の痛みや罪意識を長い年月をかけて払拭し、
人を信じ、愛し、共に笑える自分を取り戻して、自分たちの体験を希望に変え、同じような経験で苦しみ悩んでいる人たちに自らの経験を語りかけ、
援助の手をさしのべたいと願っている人たちとも話しあってきました。そうした人びとの勇気と生きる力に、私は、畏敬の念を抱かずにはいられません。
彼らのそうした力がどこから来ているか不思議に思います。私たちが苦難にみまわれ絶望の渕にいる時、私たちを新しく生まれ変わらせる力を与えて下さるのは、
神の存在以外にはないように思います。
「なぜ、私に?」(第一章)より。
ほんとうに重要なただひとつの問い
なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか。
この問いこそが重要なのです。これ以外のすべての神学的な会話は、気晴らしにしかすぎません。
神や宗教について人びとと有意義な話が出来たというのは、この問いからです。
私は600家族、2500人からなるコミュニティ(ユダヤ人共同体の単位)のラビです。
病院に見舞いに行ったり、葬式をしたり、離婚、事業の失敗、子供の問題などをかかえて、心を痛めている人びとを助けようとしています。
こうした中で、私は自分自身にこう問わねばならなくなるのです。「このまま、世界は素晴らしいし、優しさと愛の神はこうした出来事に対して責任を持っておられると、教えていけるだろうか」と。
犯した罪のふさわしい報いか?
いつの時代でも、私たちは苦痛の意味を理解するひとつの方法として、人はその身にふさわしいものを受ける、
不幸はその人の犯した罪の報いであると考えてきました。
悪しき者はわざわいだ。彼は災いをうける。その手のなしたことが彼に報いられるからである(イザヤ書3・10-11)。
十九歳の大学生の娘が寄宿舎から登校の途中、血管破裂で亡くなりました。
その親が初めに言ったことは、「ラビ、私たちはこの前のヨム・キップル(断食)の日を守らなかったのです」という思いがけないことばでした。
さらに、神にふたたび罰せられるのではないかと恐れていました。彼らにとって人生は厳しく、苦痛をともなうものであり、宗教はまったく安らぎを与えてくれませんでした。
時間がたてば明らかになるのか?
長い目で見さえするなら、人は自分でまいた種を刈り取るのだと言って、私たちは人生の苦難の意味を自らに納得させようとすることがあります。
人生は不公平なものに見えますが、十分な時間がたってみると、神の計画の正しさが現われてくるのだ、と信じるのです。
あなたのもろもろの思いは、いとも深く、鈍い者は知ることができず、
愚かな者はこれを悟ることができません(詩編92・5-7)。
詩編の作者は、正しい人は、十分な時間があれば、邪悪な者を乗り越えて人生の素晴らしさを勝ち取るのだと信じさせようとしています。
しかし、これらの出来事の背後におられるであろう神が、いつでも正しい人に悪を乗り越えていく十分な時間を与えるとは限らない事実を、
彼はどのように説明するのでしょうか。
はかり知れない理由があるのか?
不幸にみまわれた人は往々にして、神の意志によって、こういう結果になったのであり、神の意志は自分たちのはかり知るところではない、と考えて納得させようとします。
神は私たちすべての人生がふさわしく織りなされるよう模様をえがいていると言われます。
人生を私たちの側からながめるなら、神の処罰や報奨の形は、独断的で構図もない、ゆがみや結び目が散在し、まるで裏から見るつづれ織りのようです。
しかし、それは、神の側から見てみると、素晴らしい構図を生み出すために適切な位置にあり、立派な芸術作品を作り出していることがわかると言うのです。
これは、人間ひとりの価値は地球より思いという私の宗教信念からいっても、罪もない人の痛みに憤らないような考え方には、納得することはできません。
なにかを教えようとしているのか?
苦難には教育的意味があるか、否かという問いです。
われわれの世代のユダヤ教正統派の偉大な教師のことばを借りて言えば、
「苦しみは徳を高め、高慢さや浅薄な考え方を浄化し、その人をより大きくするためにある。つまり、苦しみの目的は、その人の人格の欠点を修正することにある」というわけです。
事故や病気の人に向かって、自分のほかに同じように苦しむ人がいることや、多くの人々に知らせ、また互いに助けあうべきだということを教えるために、
神はその人を苦しみの中に置いたのでしょうか。
このように納得するように説得することは、その人の支えにも、苦しみの説明にもなりません。
それはただ、神の立場をまもり、あれこれことばや考えを費して悪を善、痛みを恩恵と言い換えることでしかないのです。
神はすべてを支配している慈愛に満ちた存在であると固く信じ、その信念に反しないように、事実をうまく解釈しようとする人が考え出した答えなのです。
信仰の強さを試しているのか?
悲劇とは試練(テスト)である、という解釈は受け入れることができるでしょうか。
創世記二二章にはアブラハムのひとり息子イサクを献げるよう神が命じたことが記されています。「これらの事の後、神はアブラハムを試みた」ということばで始まっています。
私は、身体障害児をもつ親として、息子が死ぬまで十四年間を暮らしました。 しかし、神は私の内にある信仰の強さを見抜き、苦しみを乗り越えられると見抜いたので、ほかの人でなく、この私を選んだのだという考え方によって、安らぎを覚えることはありませんでした。 私は神に選ばれた者としての「特権意識」など感じませんでした。
より良い世界への解放なのか
苦難というものは、この苦しみに満ちた世界から私たちを解放し、より良い世界に連れていってくれるものなのだ、と解釈しようとする人がいます。
近所に住む五歳になる男の子がボールを追いかけて道に飛び出し、車にはねられて死んでしまいました。
追悼のことばの中で、聖職者は、「今は悲しんだり涙を流したりする時ではありません。今は喜びの時なのです。
マイケルは、汚れのない魂のままで、この罪と苦しみの世界から天に召されたのですから。今、彼は、苦しみも嘆きもない、幸せな場所にいるのです。
この事を覚えて、神に感謝しようではありませんか」と語ったそうです。
正義を求めるあまりに、また神の公平を信じたいと願うあまりに、私たちは、この世における生命だけが生命ではないという希望にしがみつこうとすることがあります。
罪のない人たちは死後の世界で、地上で受けた苦しみの埋め合わせを得るという考え方によって、人は信仰を失うことなく、この世の不公平を耐えることができます。
しかし、このような考えは同時に、不公平に心を悩ませもせず、正当な怒りを抱きもせず、不公平に対応すべく神から与えられた知性を用いようともしない態度の言い訳にもなりかねません。
死後の世界のことについて私たちは明確に知ることができないのですから、この世界のことを眞剣に考え、地上での意味や正義を追い求めるよう努めるべきなのです。
共通の誤まり
今まで検討してきた悲劇に対する考え方のすべてに、ひとつの共通点がみられます。
それは、苦しみの原因が神にあると考えていることであり、神がなぜ私たちを苦しめるのかを理解しようとしていることです。
そのため神の信望を傷つけないでおくために、自分自身を責めることになるのもありますし、事実を否定し、正直な感情を抑えこむことを強いることにもなります。 そのような運命をしょいこんだ自分を呪うか、いわれのない苦しみを与えた神を恨むのかの、どちらかになってしまいます。
理由のないこともある
すべてのことに理由があるのか
ある夜、神学の講義を終えた私に、ひとりの女性が質問をしてきました。
「苦難がおそうのは不運だったからで、神さまの意志ではないとするならば、ではなにが不運をもたらすのですか」
この問いは、私がこの本の中で述べようとしているもろもろのことの鍵となる、哲学的着想です。
私は、ある日とつぜん散弾銃を手にして走り出し、行きずりの人に向かって発砲する人の気持ちを、多少は理解することができます。 もとは軍隊にいて、帰国後、家庭や職場で、耐えがたい処遇や、挫折感を味わったかもしれません。ほかの人々に対する怒りが、ある日、突然、燃え上ったのかもしれません。
私が理解できないのは、ブラウン夫人がたまたま店に入っていて災難を免れたのに、スミス夫人がなぜそのとき通りを歩いていなければならなかったか。
男と女が交わるとき、無数の精子のなかから、どの精子が卵子に達し受精するか、だれかが決定するわけではありません。
なかには身体障害児や不治の病気を持つこどもを誕生させる精子があり、その一方で、健康で、運動神経や音楽的才能に恵まれた子、創造的知性を備えた子を誕生させる精子もあります。
理由のないこともある
物理的法則や金属疲労が原因して、飛行機が墜落し、二〇〇人の人たちが死んだとして、その日それらの人たちが飛行機に乗るのは神の意思だった、というのでしょうか。
空港に向かう途中、車のタイヤがパンクして、その飛行機に乗り遅れた二〇一番目の乗客は神の意思だったのでしょうか。
混沌と秩序のせめぎあい
神が混沌とした状態に手を伸べ、整理し、行き当たりばったりの世界に秩序を与えました。
神は光と闇、地と空、陸と海を分けました。これが創造の意味なのです。創造とは何も無いところから何かをつくることではなく、混沌に秩序を与えることなのです。
しかし、天地創造の六日間で、神がまだ完全にことを成し遂げていなかったとしたらどうでしょう。
私がこの本を書いている時にも、カリブ海方面に大きなハリケーンが発生したことが報じられています。どの地域の住民が救われ、どの地域の住民は災難にあうか、わかりません。
交通事故や飛行機事故の被害者、それら特定の人たちが悲劇にあわねばならない理由などないのです。
それらの出来事は、神の選択を反映しているのではありません。行き当たりばったりに生じるのです。
行き当りばったりとは混沌の別名であり、そこにはまだ、神の創造の光が届いていないのです。混沌は悪です。
まちがっているとか、悪意があるということではなくて、悪です。なぜなら行き当りばったりに悲劇や災難を生み出して、神の善を信じようとする人びとを妨げてしまうからです。
私たちはこうした状況のなかで生きていくことを学ぶしか方法がありません。 殺人や強盗と同じように、地震や事故というものは神の意思ではなく、神の意志とは別個の現実であることを知り、私たちが怒ったり悲しんだりするように、 神もそのことで怒ったり、悲しんだりしているのだということを認識することで、慰められ支えられながら生きていくしかないのです。
新しい問いの発見
自然の法則は平等
自然の法則は、すべての人間を平等に扱います。善良であるからとか価値がある人間だからといって、特別扱いをするわけではありません。
神は正しい人が傷つかないようにと、自然の法則に介入することはないのです。それが、正しい人に災いが生じる原因であり、私たちの住む世界のもうひとつの側面なのです。 神が災いを引き起すのではありませんし、神はそれを防ぐこともできないのです。
神のすることとしないこと
保険会社は地震やハリケーン、その他の自然の災害を「神の行為」と表現し、保険金を払いません。
私は、なんの理由もなく、罪もない数千名の人を殺してしまった地震を、神の行為だとは信じません。それは自然現象です。
自然には道徳観もなければ価値観もないのです。自然そのものの法則にしたがって、だれがそこにいるのか、なにがそこにあるのかということなど関係なく猛威をふるうものなのです。
しかし、神には道徳観があります。もし、神に道徳観がないと思っていたら、礼拝することなどできません。神は正義であり、公正であり、愛なのです。地震は「神の行為」ではありません。
神の行為というのは、地震が去ったあとで生活を立て直そうとする人々の勇気のことであり、被災者を助けるために自分にできることをしようと立ち上がる人びとのことなのです。
人が災害で死んだとしたら、それはすべて自然のなせる業であって、そこには、特定の人を選び出して処罰するという道義的理由などないことを確信しています。
病気であるとか健康であるとか言うのは、神が私たちの行いや態度にもとずいて決定していることがらではないのです。 ですから、良い問いかけは、「こうなってしまったのだから、私は今なにをすべきなのか。そしてそうするためにだれが私の助けになってくれるだろうか?」ということなのです。
これまで考えたように、もし私たちが、世界で生じるすべての不公平な出来事を神の責任であると考えることをやめるなら、神は道徳的価値観の拠り所であると、もっと素直に考えることができるでしょう。
痛みに意味を与える
つぎのようなことを想像してみてください。科学者が、人の感じる痛みの強度を測る方法を発見しました。それによると、痛みの最大のものは、出産と腎臓結石による痛みだと判定されました。
しかし、人間としてみるならばこれら二つの間には大きな相違があります。腎臓結石による痛みは、体に機能不全があるだけの無意味な苦しみにすぎませんが、出産による痛みは創造的痛みです。
それは意味のある痛みですし、生命を与える痛みであり、なにかに向かう痛みなのです。
痛みというのは、私たちが生きて存在するために支払う代価です。私たちの質問は「なぜ苦しまねばならないのか?」というものから、 「ただ無意味でむなしいだけの苦痛に終らせず、意味を与えるために、私はこの苦しみにどう対処したらいいのだろう?どうすれば、この苦しい体験が産みの苦しみ、成長の痛みになるのだろうか?」という問いかけに変わっていくことでしょう。
私は今、近所に住む、不治の病のため日一日と死に近づいている男性のことを考えています。
その人は、自分の病気について私に問いかけますが、もし私が生物学や遺伝学の説明で応じるなら、彼が必要としているものをわかっていないことになります。
彼はヨブと同じように、自分の身にふりかかった災難は恐ろしく不公平な出来事なのだと、だれかに言ってもらいたいのです。
頭脳と精神を強く保つための助けを必要としているのです。そうすれば、たとえ歩いたり泳いだりできなくても、自分で考え、計画し、決定できる未来を期待することができるでしょう。
たとえ自分で動くことができなくなっても、絶望的で依存的な障害者にならずにすむのです。
なぜこの友人が病気なのか、死につつあるのか、絶えず苦痛にさいなまれるのか、私にはわかりません。
私に言えることは、私の信じる神は、このような病気をあなたに与える方ではないし、奇跡的治療法を隠し持っているものでもない、ということだけです。
そうではなく、不滅の精神を弱く傷つきやすい肉体に宿して生きていくしかないこの世界で、自分の責任でない不公平によって苦痛にさいなまれている人、
死の恐怖におののいている人に、私の信じる神は強さと勇気を与えてくださるのです。
人間であることの自由
人間であるということ
私はアダムとイブの物語には、単に神に対する背徳とそれに対する罰、ということ以上のものが含まれていると考えています。
私の解釈は、皆さんの教えられたものと著しく異なっていますが、私はこの解釈のほうが理にかなっているし聖書の精神にもかなっていると思うのです。 私は物語は人間であることと動物であることとの違いを語っていると考えています。そしてそれを理解する鍵は「禁じられた」木が、善悪を知る木と呼ばれている点にあると思っています。
人間は善と悪が渦巻く世界に生きており、そのためには、人生は複雑で痛みを伴うものとなっています。動物はそうではありません。
動物はプログラムされているのです。本能が食べろと命じる時に食べ、眠れと命じるときに眠るという具合です。
しかし、人間は被造物のなかでも類のない存在です。私たちのなかの「神のかたち」によって私たちは道徳的な根拠から、本能に「ノー」ということができるのです。
たとえば、空腹であっても食べないでいることもでき、性的欲求にかられているときも、ほかの動物がもちあわせていない「善」と「悪」を理解する力によって、セックスを差し控えることもできるのです。
自由であることの痛み
アダムとイブに起ったことは、このことです。彼らは人間になったのです。
動物たちがいのちの木、つまり基本的生命と本能の源の木から実を取って食べていたエデンの園から、彼らは立ち去らねばなりませんでした。
彼らは善と悪のある世界、もっと苦しく、もっと複雑で、むずかしい道徳的決断をせまられる世界に入っていったのです。
この最初の人間たちは、いまや自己に目覚めたのです。彼らは自分たちが永遠に生きるものではないことも知りました。しかし、もっとも大切なことは、
人生において、さまざまな選択とをしていかねばならなくなったことなのです。
これが「神のかたちに似せられた」人間ということの意味なのです。それは本能の命じるままにことを行なうのでなく、選択の自由があるということです。
進化のプロセスのある時点で、神は善と悪を選択できる道徳的自由をもった新しい生きものを創りましたが、神がなぜそうしたのか、神の考えを知ることはだれにもできません。
そしてそれ以来、世界は人間の高貴さの現れと残酷さの現れによっていろどられてきました。
道徳的に自由であるということは、選択しだいで私たちは利己的で不正直になれるということであり、神はそれを止めないということでです。
苦難のとき神はどこにいるのか?
それでは、どうして正しい人に災いがおそうのでしょうか。その理由のひとつは、人間にはお互いに傷つけあう自由があり、人間が人間たらしめるその自由を奪うことなく神は人間の行動を止めることができないからです。
このような考え方をすれば、あのホロコーストと呼ばれる信じがたい悪の出現についても理解ができそうな気がします。
「アウシュヴィッツに神はいたのか?あんなにたくさんの罪のない男や女や子供たちが、ナチに殺されていくのをなぜ許していたのだ?」という問いに対して、
それは神が引き起こしたことではないのだ、と答えましょう。自分の仲間に対して残酷であろうと選択した人間が引き起こしたのです。
死の収容所で死んでいった六百万人の罪もない人たちに、いったいだれに責任があるのでしょうか。ここで人間は自由に選択することができるという考え方にもどっていくことになります。
もし私たちが自由でなかったら、環境や体験に縛られているとしたら、本能に縛られている動物となんら変わりません。ホロコーストが起こったのはヒトラーが多くの人を傷つけることを選んだ結果なのです。
こういう事態が起っている間、神はいったいどこにいたのでしょうか。
神は殺人者の側にはなく、犠牲者と共にいたと、信じないではいられません。しかし、人間が善を選ぶか悪を選ぶかを、神はコントロールしないのだと。
私は、犠牲者たちの涙や祈りが神の深い同情を呼び起こしたであろうことを信じます。それにもかかわらず、人間に選択の自由を与えた以上、たとえそれが隣人を傷つける選択であったとしても、神は防ぐことができなかったのだと。
苦悩する神
キリスト教も聖書期以後のユダヤ教も、苦悩する神について、捕因の民と共に家を追われる神について、神の子である人間が互いに敵対していることを見て涙を流す神について語っています。
神が苦悩するとはいったいどういうことなのか。私にはわかりません。
しかし、神の苦痛の感じ方と私たちの感じ方が違っているとしても、私は、罪のない人たちの苦しみを知ったときに私が感じる苦悩は、神の苦悩と神の同情を反映したものだと考えたいのです。 私が憐れみや怒りを感じられるのは、源に神がおられるからだと考えたいのです。虐げられている人の側に立って、傷つける者に対している時、神と私は同じ側に立っていると考えたいのです。
ここで、アウンュヴィッツから生き返った人の言葉を引用します。
──これは神のなせる業なのか、神がなんの業も示さないことの現れかと人びとは問うていたが、私はそのような問いをただの一度も思い浮かべたことはなかった。──
私のおかれた残酷な状況を神とむすびつけて考え、救い出しに来なかったからと言って神を非難したり、神に対する信仰を弱めたり、あるいは信仰を捨てようなどとは思ってもみなかった。
神にはその責任はないのだ。私たちこそ、私たちの人生について神に責任を負っているのだ。六〇〇万人の死は神に責任があると信じているとしたら、彼の考え方は転倒してしまっている。
私たちは短い、あるいは長い人生の日々を神に負うているのだ。私たちは神を礼拝し、神の命令に従うべきである。神に仕えるために、神の命令に従うために、私たちはこの地上に生きているのだ」。
言ってはならないことば
ヨブと友人たち
人生に傷ついた人にとってもっとも不幸なことは、追い打ちをかけるように自らを傷つけ、傷口を広げてしまう傾向があるということです。
家族を失ったり、けがをしたり、運が悪かったりということだけではすまず、自分は悪い人間だから、こんなことになったのだと考え、そのため、手をさしのべて助けようとしてくれる人を遠ざけることになってしまいます。
苦痛と迷いのなかにあるとき、本能的にまちがったことをしてしまうことが、なんと多いことでしょう。
自分のような人間はだれからも助けてもらえないと感じ、罪の意識、怒り、嫉妬、自らしょいこんだ孤独などによって、ただでさえ悪い状況をますます悪くしてしまうのです。
三人の友だちがヨブを訪れたとき、彼らは心の底から、多くのものを失い、病いに苦しむヨブを慰めたいと願っていました。しかし、やることなすことみな裏目に出て、結果的にはヨブをますます嘆き悲しませることになったのです。
ヨブが友だちに求めていたものは
──「神はなぜ私にこんな仕打ちをするのか」と言った時、ヨブがほんとうに求めていたものは──神学でなく、思いやりの心だったのです。
ヨブは、必死になって、自己の尊厳と、自分は悪くないという信念に固執しました。そして、ヨブは、助言より同情を必要としていました。苦しみを分かちもってくれる愛情だったのです。 だれかが自分の痛みをわかってくれているのだという実感だったのです。身体的な慰め、力を分け与えてくれる友、責めないで抱きしめてくれる友が必要だったのです。 忍耐と敬虔の模範たれと勧める友よりも、怒り、泣き、叫ぶことを許してくれる友を必要としていたのです。
苦しむものを助けるもの
ヨブの友人たちのしたことには、少なくとも二つだけ正しいことがありました。まず第一に、彼らは来た、ということです。友人が苦しんでいるのを見るのは、決して楽しいことではありません。
ヨブの友人たちは、少なくともヨブと顔を合わせ、ヨブの悲しみを直視する勇気はもっていたのです。
第二に、彼らは耳を傾けました。聖書によると、彼らは、ヨブが嘆きと怒りをぶちまけている数日の間、何も言わずにヨブのそばに座っていました。
私が考えるには、そのことがヨブにとってはいちばんの助けになったのではないかと思います。ここに私たちが学ぶべき教訓があります。
ほんとうの奇跡
祈るべきでない祈り
ある夜、電話がかかってきました。電話の主はまったく知らない人で、私のシナゴーグのメンバーでもない人でした。自分の母親の手術が成功するよう祈ってくれと言うのです。
私は母親のヘブライ名をたずねて祈ることを約束しました。しかし、この種のあとでしばしば感じる、なにかしらず、すっきりしないものを私は感じました。
ある人の健康を祈ったり、手術の成功を祈ったりすることは、思慮深い人たちに疑問を抱かせないではおかないなにかがあります。
祈りというものが、多くの人が思っているようなかたちで聞き入れられるとしたら、だれも死なないということになります。
神を信じているけれども、神には私の人生の悲しみや苦しみに対して責任はないと考えるなら、人生の危機に際して私たちが神に祈るというのは、いったいどういう事なのでしょうか。
すでに見てきたように、私たちは自分のために、神に自然の法則を変えるように求めたり、絶望的な状態の解消を求めたり、病気の推移を変えるように求めたりはできません。
私には、この人の祈りは聞くが、ほかの人のは聞かない、などという選択を神がするとは信じられません。神がそんなことをする理由などどこにもありません。
亡くなった人や生き残った人の生活をどんなに調べても、どう生活し、どう祈れば、神の愛をより多く勝ちとれるかなど、わかるはずもないのです。
神に祈ることのできない祈りとして
自分の力の範囲のことを神に求め、労力を惜しむような祈りがあげられます。ある現代の神学者が、つぎのような詩を書いています。
神よ、戦争を終結させたまえとは祈りません。
自分と隣人のなかに平和への道すじをみずから思いだすべしと。
神がこの世を創られたことを知っているのですから。
・・・・・
神よ、病苦を根絶させたまえとは祈りません。
われらが正しく用いさえすれば治癒の方途を探求する知性をすでに与えてくださっているのですから。
ですから 神よ、ただ祈るのではなく、力と決断と意志をのみわれらは祈り求めます。
祈りは結び合わせる
祈りが私たちに対してしてくれる第一のことは、私たちをほかの人と結び合わせてくれることです。
同じような思い、価値、希望、そして痛みをもつ人たちと祈りによってつながることができるのです。
デュルケームというフランスの社会学者は、1912年、『宗教生活の原初形態』という重要な書物を出版し、もっとも初歩的段階における宗教の本来の目的は、 人を神との関係に入れることでなく、人どうしを結び合わせることにある、と言っています。
宗教儀式は、誕生や死別、子供の結婚や親の死という体験をいかにして隣人と分かちあうかということを教えたのです。 種まきや収穫の儀式、冬至や春分の日の儀式など、そのようにして地域社会の人びとは、人生の喜びや恐怖を共有することができたのです。だれも、たった一人でそれらに直面しなくてもすんだのです。
祈りは正しくささげられる時、人を孤独の極みから解放します。一人きりだと思う必要はないし、見捨てられたと思う必要もないことを人は祈りを通して再確認できるのです。 祈りは人間に、どんな人も一人ではつかむことのできない、より深い、より希望と勇気に満ちた、未来に対してより開かれた、大いなる存在と結び合わされていることを教えてくれるのです。
人と人を結び合わせるということ以上に、祈りは私たちと神とをつなぐものなのです。祈りに何が可能で、祈りはどうあるべきものなのかと理解し、現実なばれした期待を捨て去ることができれば、 私たちはほんとうに必要なときに、祈ることも、神により頼むこともできるのです。
二つの祈り
ここで、聖書のなかにある二つの祈りを対比してみたいと思います。同じ人物が同じような状況のなかで、ただし二十年の隔たりをもってささげた二つの祈りです。
創世記28・20に若いヤコブが初めて父の家を出、伯父ラバンのもとへ徒歩で旅をしているときの祈りがしるされています。
「神がわたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る者を与えてくださるなら、・・・すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます」。
ここで若いヤコブは、不安におののく若者が、なにか困難なことをしようと思いながらも自分にそれができるかどうか自信がなく、「わいろ」をつかって、神にもろもろのことをはかってもらおうとしている祈りです。
創世記32・10にヤコブはつぎのように祈っています。
「主よ、わたしはあなたが示してくださったすべての慈しみとまことを受けるにたりない者です。・・・どうか、兄エサウの手から救ってください」
ここでヤコブは神に対して、エサウから助けてくださいとかは頼んでいません。神が共にいてくださるという確信を自分に与え、恐れを小さくしてほしいということです。
明日、自分の身の上に何がふりかかろうと、自分ひとりで立ち向かうのではありませんから、何とか対処できるというのです。(予想に反して、エサウはこの上なくあたたかい心と物を持ってヤコブを迎えている)。
これが、神が応答してくださる祈りです。私たちは神に、人生からいっさいの問題を取り去ってくださいなどと祈ることはできません。
自分や愛する人は病気にならないようにとも祈りません。神にはそのようなことはできないからです。
しかし、勇気を求め、耐えがたい困難を耐えるための力を求め、失ったものではなく、残されたものに心を留める寛大さを求める人たちの祈りは、かなえられることが多いのです。 失業や破産をした人、愛する者を失なった人が、生きる力を取り戻します。力強さや希望や前向きの姿勢を、彼らはどこから見つけ出してきたのでしょうか。 自分を気にかけ、心配してくれる人びととのかかわりの中で、また、神は苦しみ、うちひしがれている人の味方なのだと知ることによってであると、私は信じたいのです。
難病で未来を期待できない状況のなかで、どうやって力を得、新しく巡りくる日々に意味を感じ、立ち上がれるようになるのでしょうか。
私は、そのような人にとっても、神が答えた──その現れ方やはたらき方は違っても──と信じています。
私の信じている神は苦しみを与える神ではありません。苦しみを乗り越える力と勇気を与えてくれるのが神です。
このような精神力、希望、あるいは忍耐力を得るためには、ただ神に心を向け、これは自分の力ではどうすることもできないということを認め、長期にわたる病気を勇敢にも耐え抜いていくことは、 人間性と神性の素晴らしい発現であると言うことを理解するだけでよいのです。そして、自分は一人ぼっちではなく、神は共にいてくれるのだということを知ることによって、苦しみを生き抜いていくことができるのです。
ほんとうの宗教
息子の死に教えられたこと
初めての子供を亡くしたあとダビデ王が語ったことばが、心に浮び上っていたのです。サルエム記下12・19-23
──しかし、今は死んだのでわたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼のところに行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう。
そのとき、私は自分の本を書く時がきたことを知ったのです。自分の息子の死を直視し、受容するところにきていたのです。
私は神を信じています。しかし、今の私は、神学生だったころや子供だったころと同じ神を信じているわけではありません。私は神の限界を認識しています。
自然の法則のために、人間の進化や人間の道徳的自由のために、神になしうることには限界があるのです。
今の私は病気、事故、天災といったものが神の責任だと考えていません。神を責めることによって、得るもののあまりに小さく、失うもののあまりに大きいことを知っているからです。
私には、苦しみ憎みながらもそれを取り除くことのできない神は礼拝できますが、どんな立派な理由があるにせよ、苦しんで死んでいく子供を創る神を礼拝することができません。
神は私たちに不幸をもたらしません。不幸は不運の巡りあわせによって、悪人によって、自然の法則のなかで生きている死すべき人間として避けることのできない自然の成り行きによってもたらされるのです。
私たちはふりかかる痛みの体験は、私たちの誤まった行いに対する処罰ではありませんし、神の壮大な計画の一部分などでもありません。
人生の悲劇は神の意志によるのではないのですから、悲惨な出来事にみまわれたとしても、私たちは神に傷つけられたとか裏切られたとか感じる必要はありません。
その苦しみを乗り越えるために、神に目を向け、助けを求めればよいのです。神も私たちと同じよう憤りに燃えているのですから。
目を上げて未来を見る
私たちが問うべきなのは「どうして、この私にこんなことが起こるのだ? 私がいったい、どんなことをしたというのか?」という質問ではないのです。
私たちにふりかかってくる不幸な出来事は、その発生時においてはなんの意味も持っていないのだと考えたらどうでしょう。それらはべつに、納得できるような道理などなしにやってくるのです。
しかも、私たちのほうで意味を与えることはできます。私たちのほうで、それら無意味な悲劇に意味をもたせればよいのです。
ホロコートを生き延びた人が、人生を立て直し、財を得、結婚し、子供たちを育て、順調に日々を送っていましたが、ある日、山火事が発生、南フランスの彼の家は焼かれ、
妻と子供たちが焼死してしまいました。この惨事に苦しめられ発狂寸前になりました。
人びとは火災原因の調査の要求をするように、彼をせきたてましたが、彼は、それをせず、残された財産を投じて、このような火災から自然を守るための運動を始めたのです。
彼は、調査や究明は過去に目を向けるものでしかなく、痛み、悲しみ、非難しか生み出さないと説明したのです。彼は未来に目を向けたかったのです。
私たちもまた、「なぜ、この私にこんなことが起こったのか?」から脱却し、目を未来に向ける問いを発すべきです。「現状はこうなのだ。私は、これからなにをなすべきなのだろうか」と。
なんのための神か?
ユダヤ教の伝統のなかに、「服喪者の祈り」という特別な祈りがあります。これは死について祈りではなく、いのちについての祈りであり、基本的には住みやすい善なる世界を創造した神を賛美する祈りなのです。
この祈りを朗唱することによって、喪に服する者は、善きものすべて、生きるに値するものすべてを、いま一度、思い出すのです。
最善ばかりを求めて悲しい出来事をいっさい拒否する行き方と、悲しみを人生の営みななかでとらえ、失ってしまったものに心を奪われることなく、
自分のなかの豊かにされた部分に目や心を向ける行き方との間には、決定的な相違があるのです。
悲惨な出来事を起こすことも、防ぐことも出来ない神は、人にはたらきかけ、人を助けようとする心をふるい立たせることで、私たちを助けているのです。 一九世紀のラビが述べているように、「人間は神のことば」なのです。神は病気を取り除いたり、悪い人だけにそれが起こるようにするのではなく、(神はそのようなことはできません)苦しむ人の重荷を軽くし、 むなしくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法をとるのです。
私たち一家は、アーロンが病気の間思いやりと理解を示してくださった人びとによって支えられ、励まされました。
──そうした人たちこそ「神のことば」だったのです。神はその人たちを通して、私たち一家に、孤独ではないこと、見捨てられたのではないことを語ってくれていたのです。
同じように、アーロンもまた、神の目的のために生きたのだと私は確信しています。病気であったとか、奇妙な姿であったというのでなく、
彼が自分の病気や外見によるさまざまな問題に勇敢に立ち向かって生きることによって、アーロンは神のために生きたのです。
アーロンや私たち家族のことを知っている人が、私たちの例に倣って、自分たち自身の困難や不幸に対し、勇気と希望を持って立ち向かっていったことを、私は知っています。
神が、この地上において、人を助けるために、人の心を動かしておられることの証しだと、私は理解しています。
神の行為
最後に「神はなんの役に立つのか?正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」と問う人に答えましょう。
神は悲惨な出来事を防ぎはしないでしょうが、不幸を乗り越えるための勇気と忍耐力を与えてくれるのです、と。以前には持ち合わせていなかったそれらの能力が神以外のどこから得られるというのでしょうか。
人生は公平なものではありません。どうしてあの人がと思うような人が病気になり、強盗にあい、事故や戦場で殺されています。ある人は人生の不公平を感じ、
「神などいないのだ。世界は無秩序以外の何もないものでもない」と決めてかかります。
またある人は、「公平や不公平という感覚を私はどこから得たのだろう?見知らぬ人の不幸を新聞で読んだときに感じる怒りや義憤、本能的に感じる同情などは何に由来するだろうか。
そのような感性は神からのものではないのだろうか? 預言者と同じように、神は、わたしの心の中にも、不正や抑圧に対して怒りを覚える神御自身のほんの一部を植えつけてくださったのではないだろうか。
苦しんでいる人への私の思いやりの感情は、神の憐れみの反映ではないだろうか?」。
人生の不公平に対して私たちが抱く同情や義憤は、神の愛や神の怒りが私たちを通して現れたものであって、神の存在を示すもっとも確かな証明ではないでしょうか。
宗教のみが、嘆き悲しんでいる人に対して、自分の存在価値をしっかりと確認させてあげることができます。科学はその人に起ったことを証明することはできますが、宗教の声だけが苦しんでいる人に語りかけることができるのです。 「あなたが一人ぼっちでないことを知るために、私をあなたのそばに座らせてください」と。
愛するということ
『J・B』(マクリーシュ、一九五八年。英語で)というヨブ記の現代版の戯曲があります。
マクリーシュのヨブは(英、Job)人間の苦悩という問題に対して、神学や心理学ではなく、生き続けて新しい人生を築きあげようと選択することで答えたのです。
彼は正義が貫かれる世界を創らなかった神を赦し、あるがままの世界を受け入れる決心をしたのです。世界に正義と公平を求めることをやめ、愛を求めたのです。この戯曲の終わりに、ヨブの言う言葉は感動的です。
教会のろうそくは消え
夜空の星もまたたかない
心の灯火をともしましょう
そうすれば、やがて見えてくる・・・
大切にしていたものがすべて破壊されたこの世界は、J・Bと妻にとって冷酷で不公平なところです。 しかし、不公平な世界や人生に負けてすべてを投げ捨ててしまうのでなく、答えを教会や自然といった外に求めるのでもなく、彼らは自分の中の愛の力に目を向けるのです。 「心の灯火をともし」、小さなあかりと温さを育てるなら、お互いに支えあい励まし合うことができるのだと。
マクリーシュはJ・Bの中で、自分の書いた戯曲の最後で何を言おうとしているのかを説明しています。
「人間はすべてを神により頼んでいますが、神は一つのことで人間を頼みとしています。人間の愛なくして、神は唯一の創造者である神として存在することができないのです。
だれも人に愛を命じることはできない。たとえ神御自身でさえもできないのです。
愛は自由意志に任された賜物です。さもなければ、まったく無意味なものでしかありません。苦しみのなかにあるにもかかわらず、不義の世にあるにもかかわらず、そして死にもかかわらず示される時、
愛はもっと自由であり、あるべき姿であると言えるのです。」
私たちは、神が完全な存在だから愛するのではありません。ふりかかる不幸や悪から私たちを守ってくれるから神を愛するのでもありません。
神を恐れているからでも、背くとひどい目にあわされるからでもないのです。
私たちが神を愛するのは、神が神であるから、つまり美と秩序の創造者であり、私たちの力と希望と勇気の源であり、私たちに必要な助けを与えてくれる人びとの希望と勇気の根源だからなのです。
私たちが神を愛するのは、私たちは神あればこその私たちであり、この世界も神あればこその世界だからなのです。
これが愛すると言うことの意味なのです。愛は完全無欠を賛美することではなく、欠点のある人を、欠点があるにもかかわらず受け入れることなのです。
不完全な人間を愛し受け入れることによって、私たちはより善い人間、より強い人間になっていくのです。
答えの発見
なぜ正しい人に不幸がおとずれるのか、と言う問いに、答えはあるのでしょうか。
答えということばには、「説明」と言うことと同時に、「応答」と言う意味もあります。その意味でならば、人生の悲劇に対して、たぶん満足のいく答えが見つかることでしょう。
J・Bは完全でない世界を赦し、そんな世界を創った神を赦し、人びとに手をさしのべ、そして、なにがどうあろうと生き続けていきます。
失望させられる不完全な世界、こんなにも不公平や残虐、病気や犯罪、天災や事故の多い世界を、あなたは愛をもって赦し、そして受け入れることができるでしょうか。 そんな世界の不完全さを赦し、それでも大いなる美と善があるのだからと、これが自分にとって唯一の世界なのだからと、愛することができるでしょうか。
あなたのまわりの人びとが、その不完全さのゆえにあなたを傷つけ失望させたとしても、あなたは彼らを赦し、愛することができるでしょうか。 完全な人間などどこにもいないのだし、愛せないなら孤独になるだけなのだからと、あなたは不完全な人びとを赦し、愛することができるでしょうか。
神は完全でないと知った今も、あなたは神を赦し、愛することができるでしょうか。不運や病気や残虐が存在する世界を創り、それらがあなたを襲うのを防ぐことができない、 傷つけ失望させる神を、あなたは赦し、愛することができるでしょうか。
もし、私たちにそれができるならば、赦すことと愛することは、完全には多少欠けるところのあるこの世界で、私たちが十二分に、勇気をもって、そして意味深い人生を生きるために、 神が与えてくださった賜物であるということがわかるのではないでしょうか。
あとがき
以上は邦訳の要約でなく、気ままな抜粋です。冗長になりましたが、各自でいろいろとお考え下さい。
人工透析のことは八十五年間、思いもしなかったので、このような書物を紹介する気になりました。
週三日で一週間はまたたく間に、無為に過ぎてしまいますが、腎臓以外は全く問題なく、元気にしております。
ただ老妄のゆえに本誌の継続が危ぶまれます。皆様の健康を祈ります。(2008年12月)
