ベストピア
ぶどう園通信

No.8 2008年5月

パレスチナ紛争史(3)

滝沢 陽一

十字軍

 一二世紀後半、エルサレムは十字軍により統治され、ユダヤ人は追放されていた。 一〇〇九年、サラセン帝国(サラセンはアラブ人の総称)ファーティマ朝第六代カリフ(アルハーキム)は、 キリスト教徒の聖地巡礼禁止、全教会堂とユダヤ教の会堂の破壊命令を出している。 さらにエジプトを含む北アフリカまたシリアを制し、九七二年、都をカイロに定め、学問、教育、研究を盛んに、イスラーム史上に輝く時代を作った。

 十字軍とはビザンツ皇帝アレクシオス一世(在位一〇八一―一一一八)からの要請によって、 一〇九六―九九年以来十三世紀まで数回にわたり結成された軍事遠征軍を言う。

 一〇九九年、一か月に及ぶ包囲攻防戦の後、エルサレムは十字軍の手に落ち、キリスト教以外の住民、 イスラム教徒やユダヤ人を大量にシナゴーグに集めて火炙りにしたり、多数の人々を虐殺するなど暴虐な行為が繰り返された。

 十字軍の歴史はその後紆余曲折を経ているが、後世への影響は次の点が挙げられる。
 政治的には、遠征の失敗(一二九一年、アコー港市陥落)により教皇の権威が揺らぎはじめ、諸侯、騎士が没落し、 各国の王権が伸びた。社会的には遠征の補給と輸送に従事したイタリア海港都市が発達し、ヴェネツィアが繁栄、地中海貿易を独占するに至った。 文化的にはビザンツやイスラムの進んだ学術が西欧に流入し、ルネサンスへのひとつの契機となった。
 十字軍によるユダヤ人の離散はロシア、東欧、西欧に及び、各地における迫害が始まる。 また隔離をして強制的にゲットー(ユダヤ人居住区域。外界と遮断された)に押し込め、抑圧され、また異端審問にかけられるなど迫害は続いたが、 ついに反ユダヤ主義はナチス(ヒットラーの国家社会主義政権)による大量虐殺(ホロコースト。原義は特に火事による大災害、またユダヤ教の焼き尽くす献げもの)は、 六百万人に至り、人類の歴史上最悪の汚点を残した(一九四三年―四五年)。しかもこの事実が明らかになったのは第二次大戦終結後のことである。

サラディン

 サラディンは一一八七年、エジプト、シリア、ペルシア湾岸、イエメンを支配したスンナ派王朝の創始者であるが、 一一八七年、十字軍に圧倒的勝利を収め、エルサレムを奪回した。
 一二五〇年にはトルコ人を主体とするマムルーク朝が支配権をとり、以後二六七年間、エルサレムはスルタン(支配者)により統治された。
 この時代、マムルーク人は他宗教に対し寛容であったが、キリスト教徒とユダヤ人は人頭税を払い、ユダヤ人は黄色、 キリスト教徒は赤いターバンを着用していた。

オスマン帝国

 一二―一三世紀、アナトリア(小アジア)地方を統治していたトルコ系小候国のオスマン一世が始めたオスマン王家は、六百年にわたり、 中近東全域を支配した。
 第七代スルタンはコンスタンティノープルを陥落させ、イスタンブールと改名、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人を移住させ、イスラム、 キリスト教徒も包みこみ、一六世紀半ばには、人口五〇万のヨーロッパ最大の都市となった。 一五二九年、ウィーンを包囲、ヨーロッパ諸国を脅かし、十字軍の後裔、聖ヨハネ騎士団をロードス島からマルタ島へ追いやり、スペイン、 ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊を破り、オスマン帝国は地中海、黒海、紅海、ペルシア湾にわたる制海権を握り、 ヨーロッパ諸国の東方貿易に脅威を与え、アジア、ヨーロッパ、北アフリカ沿岸部にわたる大帝国になり、一六世紀半ば、最盛期を迎えた。
 軍事、政治、法律、文学、芸術、建築に活躍する者多く、豊かな文明開化の時代が続いたが、その要因は、 民族や宗教や異にする人々をゆるやかに統合、共存させることにあった。
 一五世紀末、ポルトガル、スペインの「大航海時代」が始まり、オスマン帝国は国内体制の老朽化とともに、スペインとの海戦に敗れたり、 一八世紀にはいるとロシアの南下政策、従属民の独立など、一路衰退の道をたどることになる。

第一次大戦

 一九一四年に勃発した第一次世界大戦は、ドイツ、オーストリア、ハンガリーにトルコ、ブルガリア対ロシア、フランス、イギリス、日本、 さらにイタリアとの戦争となった。
 イギリスはトルコ領内のアラブ人の協力を得るために、アラブの独立を支持する約束をした。 一方、ユダヤ人の協力を得るために、ユダヤ人の民族郷土パレスチナへの帰還、建国を約束した(一九一七年一一月)。 これが現在のパレスチナ紛争の最初の原因となった。

シオニズム運動の開始

 シオンは「ツィオーン、要害」が原義。エルサレムを意味するようになったのは聖書で読む通りである。
 シオニズムは父祖の地パレスチナへ帰ろうという帰還運動で、一九世紀後半ロシア、東欧、中欧で起こり、 ユダヤ人の民族国家の樹立を目的として始められた。
 一八九〇年、シオニストのパレスチナ移住(移民)が始まった時、エルサレムの人々は四万二千、ユダヤ人が二万五千、 イスラム教徒が九千、キリスト教徒が八千人、すでに居住していた。
 当時はオスマン帝国(トルコ)の統治下にあったが、民族国家の建設に根本的に必要な土地は無く、 パレスチナ・アラブ人はシオニズムの正当性を否定し続けていた。

アンティ・セミティズム

 一八五〇年代から七〇年代にかけて、イギリス、ロシア、イタリア、ドイツスイスでユダヤ人解放が行われた。
 それまで、たとえばロシアではユダヤ人差別制限法令が次々に施行され、スラブ国粋主義による集団的ユダヤ人排撃が激化し、 ロシア本土に定住することさえ許されず、ポーランド領内に定住境界(ゲットー)が定められたり、二〇世紀初めには百十四万人がロシア、 東欧などからアメリカへ移住している。

ヘルツェル

 近代のシオニズム運動の政治的理念は、一三世紀のユダヤ教が生み出した終末観である。 終末に到来するメシアが、離散のユダヤ人を、世界中から集めて、父祖の地パレスチナにユダヤ人の民族国家を再興するという思想で、 これがあらためて、シオニズム運動の出発点となった。ハンガリー生れの新聞記者ヘルツェルが一八九六年、ウィーンで、 ドイツ語で発表した『ユダヤ人国家―ユダヤ人問題の現代的解決の試み』が基点である。
 また、一八九一年、三〇歳、ウィーンの知識人の読む「新自由新聞」のパリ通信員であった時、 有名な「ドレフュス事件」に出会ったのが契機ともなっている。ユダヤ人のドレフュス大佐がフランス軍の機密をドイツ軍に売り渡したという冤罪事件で、 のち無実と判明、名誉を回復した。大仏次郎の『パリ燃ゆ』はこれを扱った作品である。

シオニスト会議

 天性のカリスマ的指導者の資質と卓越した組織力を有していたヘルツェルは、 『ユダヤ人国家』発刊の翌年一八九七年、スイスのバーゼルに二〇四人の代議員を集め、第一回シオニスト会議を開催した。
 第五回、一九〇三年、バーゼルの会議では、ユダヤ人建国の地を、英国首相チェンバレンの、中部アフリカの東、 保護領ウガンダ高地を提供するという案をめぐり激論が交わされ、賛成二九五、反対一七八、棄権九八となり可決された。 しかし、ロシア代表国は反対、退出、数か国の代表もそれに続いた。
 ヘルツェルは反対者と交渉、結局、最終目的地はパレスチナであると約束せざるを得なくなり、今日に至る。

イギリスの矛盾する協定

 オスマン・トルコの第一次大戦敗北の処理の中で、トルコの東方領土について、イギリスは相互に矛盾する三つの協定、密約を結んでいた。 いずれも植民地や従属国の自治、独立を約束したものであった。
 一つは、ヨルダンの参戦を条件に、アラブの独立国家建設を約束したもの。
 二つは、この公約と並行して決められた、英、仏、ロシア三国間の「サイクス・ピコ協定」(英・仏代表の名)である。 一とは反対に東方アラブ地域の分割統治である。パレスチナもその中に入る。

バルフォア宣言

 三つ目はイギリス外相バルフォアがイギリス本土シオニスト連盟代表ロスチャイルド(有名な世界的富豪)に送った書筒であり、 ロスチャイルドから喜びの返書が届き、「バルフォア宣言(一九一七年)」と名付けられている。
 「──大英帝国政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土が建設されることを好ましいとみなし、 今後、この目的の達成を容易ならしむるために最善の努力を行う。──」

アラブとの協定

第一次大戦が終ると、アラブ民族主義者の運動が始まった。パレスチナを「南シリア」と呼び、 ダマスカスを中心とする大アラブ国家との連合を主張するものであった。シオニスト代表国はアラブ民族主義運動者と交渉、 一応、合意に達した。これはアラブ・ユダヤ両国家の併存をうたったもので、「パレスチへの大規模なユダヤ人移住を奨励し促進する」ことが入れられている。 しかし、アラブ民族主義者の有力者によって、最終的に拒否されてしまった。

エルサレム入城

 オスマン・トルコ帝国のパレスチナ支配は四百年続いたが、一九一七年、イギリス軍司令官アレンビーの軍隊がスエズ運河地域から進撃、 エルサレムに至り、一二月一一日ヤッフォ門から入城、オスマンのパレスチナ支配は終りを告げた。 以後、三十年、イスラエル独立まで、イギリスの支配が行われる。

パリ講和会議

 第一次大戦講和会議は国際連盟(国連の前身)を生んだほか、旧ハプスブルク帝国の下にあったポーランド、 チェコスロヴァキア、ハンガリー等の民族国家の樹立を迎えた。
 アラブ民族主義者代表も出席、バルフォア宣言を諒承したことを忘れてはならない。

パレスチナ分割

 第一次大戦後の連合国は、アラブ地域の支配権争いを始め、「サン・レモ会議」(一九二〇)で、アラビア半島以外の地域は、 英仏の委任統治下に置かれ、独立アラブ王国建設の宣言もシリア、ダマスカスで行われたことがあったが、指導者ファサイルは敗北、 国外追放となっている。バルフォア宣言の承認は続いている。

 以後、イギリス、フランス、ロシアによる領地争いが始まり、アラブ側の民族主義や独立運動も起こり、パレスチナは結局、 その境界が、過去の歴史とは別に、人工的に、英仏によって、ヨルダン川以西に限られてしまった。
 パレスチナとイラクはイギリス委任統治地となり、エルサレムはイギリス軍が管理をしたが、民衆の不満が高まり、一九二二年、民政に移管された。 委任統治はイギリス高等弁務官が執行した。
 エルサレムには市議会が置かれ、住民の大半はユダヤ人であったが、ユダヤ、アラブ六人づつから成っていた。

反ユダヤ暴動から建国前夜まで

最後の暴動

 第一大戦終結後、ロシアのポグロム(破壊)、一九世紀から二〇世紀初めにロシアで行われた集団的襲撃や虐殺を逃れて、 多数のユダヤ人が開拓、入植したが、近隣のアラブ人からの反ユダヤ暴動に直面した。
 一九二〇年、「ハガナー」(防衛)と呼ばれる自衛組織を結成、一九三一年、「イルグン」、民族武装組織が生まれ、実力行使に至り、 イギリスが移民を制限したのに反発、数万の非合法移民をパレスチナに運んだりした。
 一九四六年、イギリス軍はユダヤ代務機関を急襲、二千人余りが逮捕されたが、一ヶ月後、報復として、 委任統治政府の入っていたキング・ディヴィッド・ホテル(ダビデ王ホテル)が高性能爆薬で一階を完全に破壊された。

移民

 前記ロシアのポグロムを逃れた大量の移民、特に一九〇四年―一四年(第二次移民)はイスラエル建国に重要な役割を果し、 歴史家は建国前移民を六期にわけ、ロシア、ルーマニア、ポーランドからが多く、建国後はナチスの迫害を逃れ、 ホロコースト(虐殺)に生き残った者たちが大量にドイツ、東欧から、さらにモロッコ、ソ連からの移民があい次いだ。

パレスチナ問題調査団

 イギリスと国際社会はバルフォア宣言にもとづくユダヤ人の「郷土」(ナショナル・ホーム)建設支援のため、先ず、調査団を派遣した。
 一九二一年に調査団が派遣され、一九四五年に至るまで、とりかえ、ひきかえ、多くの報告がなされたが、四五年、 調査団全員一致の勧告を行った。
 人種、社会、宗教に関わりのなく、(ユダヤ人が)土地の自由な販売、貸与、使用を原則とすることを新しい移住政策の一項とした。
 長期政策としては、パレスチナはユダヤ人あるいはアラブ人の国家のいずれにもならず、双方が相手を支配する立場にならず、 敵意が消滅するまで、パレスチナは委任統治下に置くことであった。
 イギリスは移民十万人の許可を拒否し、パレスチナ問題を一括して放棄し国連に一任、国連はパレスチナ特別委員会を設置。
 一九四七年、国連特別総会は、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する案を多数決で決議。
 これをユダヤ側は受諾、アラブ側は拒否、武力阻止の構えを見せ、妨害、テロが起り、ユダヤ国家誕生阻止が至上命令となっていった。
 ユダヤ人は内陸の居住区やエルサレムが孤立するようになり、補給物資や兵器を海岸地域から送るため、 シオニストによる対アラブ軍事作戦が始められ、さらに、双方の非戦闘員や村民が集団で殺害される事件が次々に起った。 アラブ側の攻撃を撃退したのは、このほか、各地域の自衛組織「ハガナ」であり、ユダヤ人国家誕生の原動力は、 以前から各地に存在していたこのようなユダヤ人共同体であったことは重要である。

 

イスラエル国誕生

 一九四八年、全シオニスト評議会とユダヤ民族評議会は人民行政委員会(一三名)と人民評議会(三七名)の設立を決定、 イギリスの委任統治が終る時、新生ユダヤ人国家イスラエルの臨時政府および国会として機能することになる。
 一九四八年五月一三日には、アラブとの抗争が続く中、人民評議会は五人委員会を作り、独立宣言の草案を承認、 五月一五日イギリスは委任統治を終了する旨を公表、一四日には高等弁務官は深夜、ハイファ港からイギリス艦に乗り、領海外に出て、 三十年に及ぶ統治は正式に終わりを告げた。

独立宣言

 エルサレムはすでにアラブ軍の包囲の中に孤立していたので、テル・アヴィヴの市立美術館で人民評議会が開催され、政治、文化、芸術、 入植者等の代表が出席、評議会議長ベングリオンが独立宣言を読みあげ、全員起立して承認、全員が署名、 ラビが祝祷をささげ「ハティクヴァ(希望)がうたわれ(のち国歌)会議は終了し、イスラエル国は独立の日を迎えた。

第一次中東戦争

 イスラエル独立宣言から数時間後、エジプトとアラブ五か国の正規軍が主力のエジプト空軍のテル・アヴィヴ爆撃に始まり侵攻を開始した。
 一五か月に及ぶ戦闘を耐えぬき四九年七月、イスラエルは勝利を収めた。
 この戦争によって難民が生まれ、イスラエル国内に残留した一六万人のアラブ人はイスラエル国籍を取得、 ユダヤ人難民は新生イスラエルで社会復帰をしたが、アラブ人難民(パレスチナ難民)は放置され、今日なお世界の援助、 支援を受けつつも失業と貧困の中にある。

第二次中東戦争

 第一次の休戦後も険悪な情勢が続いた。アラブ側のテロ事件、越境侵入の頻発である。さらにエジプトはチラン海峡を封鎖、 アカバ湾に砲台を設置、イスラエル船の航行を不可能にし、一九五六年にはエジプト、シリア、ヨルダン三国軍事同盟を締結、一挙に危機感が増し、 イスラエルはこれを戦闘行為と受けとめ、先制攻撃をかけ、エジプト軍を駆遂、スエズ運河の東一六キロまで進出、またガザとシナイ半島全域を占領した。 「シナイ作戦」という。
 時を同じくして、エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言、イギリス軍、フランス軍は中東、 アジアに有する権益への一方的な挑戦と受けとめ、爆撃、空挺部隊の降下など攻撃を開始したが、米国等の圧力に屈し一一月六日、停戦をした。 ついで平和維持を目的とした国連緊急軍が設立され、比較的平穏な月日が続いた。
 イスラエルにとって一九五八年から六八年までの時期は国家整備、対外強化の時代であり、 独立当時の六〇万人が六五年には二三〇万人の人口となった。

第三次中東戦争

 ソ連は米国に対抗し中東支配をもくろみ、エジプトへの軍事援助をしていたが、イスラエル軍を一挙に壊滅させようと、 イスラエルが大軍を集結しているとの誤報を流し、エジプト軍に攻撃を始めさせようとした。
 これを知ったイスラエルは直ちに空軍を出動させ、エジプト軍は逆に徹底的な攻撃を受け、六日間でこの戦争は終結した。 「六日戦争」と言われ、イスラエルはパレスチナ全土を制圧した。
 その後、シナイ半島やゴラン平原の返還などが行われているが、停戦から三週間後、スエズ運河をはさんで戦闘が起り、 七〇年八月まで続いた。「消耗戦争」と言われる。

PLO(パレスチナ解放機構)

 第三次の敗北によりパレスチナ難民は百万人も出ている。パレスチナのアラブ人は改めて民族意識が高まり、ゲリラ組織の活動も増加したが、 アラファト(一九二九―二〇〇四)は、六八年、対イスラエル軍と戦い、勝利を収めたゲリラとして英雄となり、各地、各種のゲリラを統合し、 PLOを設立、議長となった。

第四次中東戦争

 一九七三年十月六日、ユダヤ教の新年祭、ヨム・キップール(贖罪日)にエジプト、シリア両軍が奇襲攻撃を開始、三週間に及んだが、 エジプトはスエズ運河を制圧し、アラブの誇りを回復、また一方で「石油危機」という形で世界のアラブへの関心を高めた。
 これはエジプトのサダト大統領の軍事、政治上の行き詰りを打開する目的で第四次への長期戦略を練っていたのである。
 サダトは親米政策をとり、米国を仲介者とし和平を目指し、イスラエルを電撃訪問、またカーター大統領の仲介で、 キャンプ・デイヴィッドで合意文書を調印、エジプト・イスラエル和平条約(七九年)とパレスチナ紛争の平和的解決の先鞭をつけた。
 (この後、多くの問題を起しつつも一九九四年、パレスチナ自治政府が誕生し、領土、難民、エルサレム主権、水資源などの交渉が始まったが、 アラファトの病死もあり、過激派のテロ活動もやまず、イスラエル軍の激しい反撃があり、現在に至るも、最終的な平和は到来していない。)