No.7 2008年4月
パレスチナ紛争史(2)
滝沢 陽一
ギリシア時代
アレクサンドロス大王は前三三四年、マケドニアから東方遠征を始め、バビロンに入城、ペルシアを滅亡させ、
なお中央アジア、インド北西部に至り、わずか十年の間にギリシア、エジプトからインド西部にわたる大国家を建設した。
大王はギリシア文化の東方への普及とともにペルシア文化の保護を図り、両文化は融合し、新しいギリシア文化が生まれた。
ヘレニズム文化という。
大王の死と共に、広大な領地は後継者争いによりエジプト、シリア、マケドニア等に再分裂をした。
パレスチナはエジプト・プトレマイオス家に支配され、その間はユダヤ人の生活は安定していた。
「七十人訳聖書」
この旧約聖書(ヘブライ語)のギリシア語訳はヘレニズムの所産である。 アレクサンドリアでプトレマイオス二世(在位前二八三─二四七)に招聘された七十二人のユダヤ人学者がたずさわったという。 「セプトゥアギンタ」(ラテン語で七十)とも呼ばれ、わたしたちの旧約聖書の配列は七十人訳に従っている。このヘブライ語、ユダヤ教経典は律法、 預言、諸書(文学)の順であり、また、使徒パウロをはじめ初期キリスト教が七十人訳を用いていたことは新訳聖書の引用で明らかである。 これはユダヤ人は各地、ギリシア、ローマの植民地都市にも増加し、当時の世界語であるギリシア語を用いていたからであり、新約聖書がギリシア語で書かれ、 各地のユダヤ人社会からキリスト教徒が生まれ、キリスト教とその教会の歴史が始まったのは、ヘレニズム文化を背景としていったからである。
マカバイの反乱
前一九八年、シリアのアンティオコス三世の時代、ユダヤ人は、信仰生活の自由や援助を与えられた。
パレスチナの住民はユダヤ人、サマリア人、イイドゥメア人(エドム人)、ナバテア人などであったが、ギリシア人、マケドニア人が入植、
ポリス(都市国家)を作り、各地に活動、前述のようなギリシア時代が展開、ユダヤ人に大きな影響を与えたといえよう。
アンティオコス四世(在位一七五─一六四)は政権を取るとギリシア化の政策をさらに推進する。
エジプト征服は失敗、エルサレムの大祭司を更迭したり、神殿の財宝を略奪、律法の書を燃やし、安息日や割礼などの律法生活を禁じ、
神殿や国内各所にギリシアの神ゼウス像を置くなどして、前一六七年、ユダヤ教遵守禁止令を公布した(ダニエル書一一章)。
この弾圧に抗して武力をもって立ち上がったのが、ハスモン家のマタティヤであった(前一六七年)。
ゼウスに犠牲をささげるユダヤ人とそれを監視する役人を殺害、この一族はユダの荒野に逃れ、また各地から参加する者多く、
マカバイ戦争と呼ばれるようになっていった。(前一六七─一六二)。
『旧約聖書続編』(旧約外典、アポクリファ)の「マカバイ記一」「マカバイ記二」はこの間の記録と物語である。 『続編』については、折があったら、解説したいが、ここでは省略する。カトリックは正典の中に入れ、新共同訳の旧約と新約の間に置かれている。
ユダヤの独立、ハヌカー祭
マタティアは一年で病死、三男のユダが後継者となり、次々にゲリラ戦に勝利を収めていった。
マカバイは「鉄槌」の意味で、マカバイの戦い全般に用いられたが、優れた戦略家であった。
前一六四年、エルサレムを解放、異教の祭壇など全ては除去され「宮潔め」神殿の再奉献式を行った。
この時、清浄な油が一日分しか残っていなかったのに、補給の清浄な油が届くまで八日間も燃え続けたという。
これがユダヤ教のハヌカーの祭りの起源である。ハヌカーは「奉献」の意味、また「燈火の祭り」、毎年十二月頃八日間行われる。
ユダヤ人はクリスマスを祝わないが、時を同じくするので、キリスト教徒とならんで楽しい時を過ごす。メリー・クリスマスと同様に、ハッピー・ハヌカーと挨拶する。
ユダはのち戦死、弟のヨナタンが指導者となり、パレスチナを制し、その死後、ユダの次男シモンは「大祭司、民族支配者、
ユダヤ軍最高司令官」という称号を与えられ、「真の預言者が世に出るまで」世襲されることになり、「王」という称号は用いなかったが、
パレスチナにおける主権を確立し、ローマやスパルタ(ギリシア)と国交を樹立するなど、ユダヤはその勢力を拡大、維持した。
この事は前一四二年、エルサレムに召集された「大集会」によるもので、この時をユダヤ人の独立国家の回復とする。
南王国ユダ滅亡(バビロン捕囚、前五八六年)より四五三年のことである。(マカバイ記一・一三章─一五章他)
ハスモン家はこの後、支配者(王)の継承争いをはじめ、国内政治の乱れ、外国との関係など様々な変動はあったが、前六三年、
ローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを占領、ハスモン家最後の支配者アリストプロスを降伏させ、
ユダヤには総督が置かれ、ローマの支配下に入りその独立は再び失われた。
その後ローマ内の権力の変遷が次々と生じたが、ヘロデという権謀術数にたけた人物が、前三七年に、
ローマ元老院によって「ユダヤの王」に任命され、さらに大王と呼ばせるようになった。
イエスの降誕はヘロデ大王(前三七─四年)の末期、ローマ皇帝アウグストゥス、
シリア総督キリニウスが住民登録を行った前四年とされる(ルカ二・一)。
ローマ時代
第一反乱
ヘロデ大王をもってユダヤ人はローマ総督の支配下に入ったが、その圧政支配に対し、ユダヤ人の不満は徐々に高まっていった。
第一反乱は皇帝アウグストゥス(在位前二七─後三四)、パレスチナで兵士を徴募、各都市に配備し、人口調査によって、
重い税金を強制的に取り立てなどした。
これに対しガリラヤのイェフダ(ユダ)とファリサイ派のツァドクが抵抗運動を起こした。
一方、エルサレムの議会(サンヘドリン)では、貴族階級のサドカイ派とファリサイ派の律法学者が議席を占め、
反ローマ的な熱心党(イエスの十二弟子の一人に熱心党のシモン、マタイ一〇・四あり)は行動的であったが、ついに後六六年、
ローマ総督がエルサレム神殿から金品を掠奪したことを機に大反乱を起こした。
反乱者たちは勝利を収め、統治機関を樹立、硬貨を鋳造し、七つの軍管区、指揮官を置くほどであった。
マサダの要塞、神殿炎上
皇帝ネロは、しかし、有能な将軍に三師団を与え、紀元七〇年、エルサレムを占領、神殿は炎上、完全に破壊され、
ユダヤ人は神殿を失ったまま今日に至っている。神殿跡には後にイスラムのモスク(黄金のドーム、岩のモスク)が建てられ、
現在、この神殿の下方の西壁とされているところで、ユダヤ人が祈りをささげているのは衆知の通りである。
マサダの要塞は、死海の西岸に向かって約三九〇米の急斜面の岩山に建てられた。七〇─七四年、
シカリ党(短剣党)がローマ軍に対し最後の抵抗を試み、ついに全員が最後を遂げた。
今日、イスラエル独立と国家への忠誠の象徴の場として重んじられている場である。
旧約聖書の完成
神殿破壊とともにユダヤ人は完全な離散の民となる。それでも、ユダヤ人社会はユダヤ教学の中心地をエルサレムから、
海岸のヤブネ(テル・アヴィヴの南約二〇キロ)に移し、ラビの学府(律法、トーラーの研究)と政治、宗教の最高議会(サンヘドリン)を設置しローマの統治の下にも、
その信仰と民族の伝統を保つ努力をしている。
そして一一八年頃、ラビの会議を繰り返し、ユダヤ教聖書の「正典」を最終的に決定した。キリスト教の前提となる旧約聖書の完成である。
第二反乱
ローマ皇帝ハドリアヌス(一一七─一三八)がエルサレムに異教の神殿を含むローマ植民都市計画を発表、
絶望したユダヤ人は(一三二─一三五)最終的な反乱を起こした。シメオン・バルコホバ(星の子)が率い、
ラビ・アキヴァの協力もむなしく全員が戦死もしくは捕えられ、ハドリアヌス帝は議会を解散、ユダヤ教を徹底的に弾圧、
ユダヤ教を信じる者を死刑にし、殉教者を多く出すとともに、外国へ離散、エルサレムへの立ち入りは禁止された。
その後、五世紀に禁令は廃止されたが、ユダヤ人は全世界にわたる離散の地にとどまる者が大部分であった。
ビザンツ時代、初期イスラム時代
時期区分
ローマ帝国は三九五年、東西に分裂、西ローマ帝国はミラノ、のちラヴェンナを首都とし、東ローマ帝国は三三〇年、
コンスタンティノープルの開都式をあげた。その後、コンスタンティヌス大帝は東西を統治、三一三年、ミラノ勅令によって公認、
キリスト教迫害を中止、信教の自由を認め、救援物資などを送った。
東ローマ帝国は首都の旧名ビザンティウムにちなんでビザンツ帝国とも呼ばれ、高度の芸術と文化を誇ったが、一四五三年、
オスマン帝国により滅亡した。
三二五年、キリスト教は東西全土にわたる代表がニケアにおいて第一回公会議を開き、
三位一体を強調するニケア信条が定められるほどに発展していった。
大帝はまた第二叛乱後、「アエリア・カピトリーナ」とハドリアヌス帝が名付けたエルサレムを「エルサレム」とし、
聖地とし、皇太后のヘレナが訪問するほど(三二六年)キリスト教は発展していった。
ペルシア軍来襲
六一四年、ペルシア軍がパレスチナに侵入、二〇日間の包囲ののち、エルサレムを占領した。キリスト教徒の大部分が殺され、遺跡は破壊された。
六二九年、エルサレムを奪還、皇帝と主教たちにより建造物は再建された。
ビザンツ時代の壮麗な教会堂や修道院を見るならば、キリスト教は繁栄の時代であった。
モハメッド(五七〇─六三二)は一神教の系譜を継ぐ預言者は前記のエルサレムの奪還の頃、信徒の一団とメディナに教団国家を建設していた。
その死後、旧友アブ・バグルがイスラムの初代正統カリフに選出された。バグルは軍団を各地に派遣、アラビア半島全域の支配を確立した。
サラセン帝国の完成である。
第二代カリフは六三八年、シリアに向かい、その途次、エルサレムを包囲した。
ギリシア正教の総主教ソフロニオスは平和を求め、無条件降伏を申し出た。キリスト教徒は信教の自由を与えられ、
離教のユダヤ人がエルサレムに、そしてイスラムのエレサレム支配が始まり、今日に至っている。
初期イスラム時代
六三八年の二代カリフによるエルサレム支配から、一一世紀末の第一回十字軍によるエルサレム攻略で、四六〇年に及ぶイスラム支配は終わった。
この時代、歴代カリフは、バグダードを首都とし、他の宗教に寛容であり、信教の自由が与えられ、平和な繁栄が続いた。
一一世紀にはエルサレムに宗教別の居住区が形成され、現在も旧市街は、イスラム、キリスト教、
ユダヤ教とアルメニア人(キリスト教の一派、ギリシア西部の古代国家に発する)に分かれている。ヨーロッパからは巡礼者が訪れはじめていた。
九六九年、イスラムのシーア派の一派がアフリカに王朝を建て、続いてトルコの征服を試みているうちに衰退、混乱、
エルサレムは、一〇九九年、第一回十字軍によって占領された。
岩のドーム
モハメッドはエルサレムから昇天したと伝えられているが、第二代カリフ・ウマルは、七〇年のローマによる破壊ののち、 放置され荒れ果てていた神殿の丘を整え(それまでビザンツ時代のサラセン帝国の王たちはあえて手を触れなかった)六三八年、 木造のモスクを建てた。六九一年、現在建っている黄金色のドーム(円天井)を持つ、八角形の大モスクが六九一年に完成、 何度も内外の修復、整備があったが、今日も原形をとどめ壮麗な姿を示している。中央に巨岩が低く横たわっているが、 アブラハムがその独り子イサクを奉献したモリヤの地の山であり、神殿の至聖所があり、またモハメットが昇天した場所とされている。
(次号に続く)
