ベストピア
ぶどう園通信

No.6 2008年4月

パレスチナ紛争史(1)

滝沢 陽一

紛争解決へ

 二〇〇三年六月、ブッシュ米大統領、パレスチナ自治政府首相アッバス、イスラエル首相シャロンの三人でヨルダンのアカバで和平会談を開いた。 ブッシュがEU、ロシア、国連と協力して「ロードマップ」(道路地図)という平和構想を作った第一歩であった。
 ロードマップ第一段階(二〇〇三年五月末日まで)パレスチナはイスラエルの生存権を認め、テロを停止する。 イスラエルは、パレスチナを主権国と認め、ガザ地区やヨルダン川西岸から軍を撤収。入植活動を凍結する。
 第二段階(二〇〇三年十二月まで)パレスチナが憲法を制定、暫定的な国境を持つ独立国家を樹立する。
 第三段階(二〇〇五年まで)エルサレムの主権などの問題を解決して、両者の関係を正常化する。

パレスチナの現状

 イスラム原理主義組織ハマスはロケット弾攻撃、イスラエル軍は過剰な攻撃、侵攻と両者は相互に報復と称して戦闘を繰り返している。
 二〇〇八年二月下旬、エルサレムのユダヤ教神学校(ラビ養成)にパレスチナ人が乱入して自動小銃数百発を発射し、学生を殺害、重軽傷を負わせる事件が起こった。
 三月一日にはこの報復、ハマス撲滅作戦として、イスラエル軍がガザに侵攻、ハマス幹部を殺害、市民にも七十人の犠牲者を出している。
 和平条約締結を二〇〇八年末までに目指し、前記ロード・マップ交渉は続いていたのであるが、打ち切りとなっている。 特にガザは百五十万人の住民がイスラエルの経済封鎖によって製造業や建設事業はストップし、人口の八割が食料援助に頼る人道問題になっている。 また、ハマスは新性能のミサイルとロケットをイランから(旧ソ連の開発)購入するなど、五年を超えるイラク戦争に加えて、中東全域の平和も失われたままである。

パレスチナの地名など

パレスチナ

 北はレバノン、東北にシリア、東にヨルダン、西は地中海に接する四国より少し大きい地域で、 一九八八年にユダヤ人四二二万、イスラム教徒七二万、キリスト教徒一二万、その他少数民族九万であるが、 その後、紛争による難民、ユダヤ人の出国を禁止していたソ連、ついでロシアからの移民などがあり、大きな変化があるであろう。 この地名はギリシア語で「海の民」パラスティネーから各国語に入った。ヨーロッパ系で、地中海沿岸に最終的に住みついた。 現在の用法ではアラファトのPLO(パレスチナ解放戦線)からイスラエル以外の土地と人民を指し、独立国になろうとしている。

イスラエル

 アブラハムの子のイサクの子ヤコブは兄エサウから相続権を奪い、エサウの怒りを買い逃亡、放浪の旅に出る。 その末に、ヤボクの渡しで神の使いと格闘し、その際、ヤコブからイスラエル、「エル(神戦いたもう)」という名を与えられる。(創世記三二・二三) 。旧約聖書の民と地の総称であり、(三五・一〇)ソロモン王の死後、南北に分裂し、死海の北岸から、地中海の線より北の北王国の名称となり、 南王国をユダと呼ぶようになった。エルサレムはユダの北部になる。(前九二八年)

ユダ、ユダヤ人

 ユダは「神はたたえられよ」。イスラエル南部の一部族の名また人名に多く用いられている。
 ユダヤはローマのヘレニズム時代、新約聖書の背景をなす時代、パレスチナ全土に対して用いられていたユーダイア(ギリシア語)に由来する。 イスラエルと同義語とも言える。
 ユダヤ人は現在、ユダヤ人を母とする者、またはユダヤ教を信じる者(その人生と実生活のすべてをユダヤ教の信仰と律法及び習俗と教えに従って生きる者)はユダヤ人とされる。

エルサレム

前二〇─一九世紀にはエジプトの文書にこの町のことが出ている。古代からの要害、丘陵上の都市であった。その名称の由来は諸説あり、 「平和の所有」「平和の基礎」を意味するアラム語を一応の原語とするが、現在、紛争の地であるのは残念である。 前一〇〇〇年、ダビデが統一王国の都とし、次のソロモンが遺志を継いで神殿を建てる。
 シオン、シオンの丘は別名「要害」の意味。神の住まいであることが強調されるときに用いられている。

ヘブライ人、語

 古代アッシリア語などセム語で「渡る、越える」ヘブライ人はユーフラテス川沿岸からカナン(パレスチナの古代の名称の一つ(原語は「紫色の染料」その商人。 王侯貴族の衣料に用いられた。)へ移住してきたが定住するまでには時間がかかり、各地で一種の寄留民で、市民権を持たず、時に強制労働に従事した社会層を形成していた。 定着後、イスラエル人と同義に用いられるようになった。

カナン侵入

族長時代

 アブラハム、イサク、ヤコブはユダ人(イスラエル民族)の先祖とされ、族長と呼ばれている。 「わたしの先祖は滅びゆく一アラム人であり」(申命記二六・五―一〇)と族長ヤコブは言っているが、アラム人の集団は二つの移動群として、パレスチナの沃地に侵入した。 第一波は前一九、一八世紀頃アラビア半島から北に移動、メソポタミアとカナン(パレスチナ)の周辺をなすシリアに定着、 支配層となる。アブラハムの父テラの旅とされる(創世記一一・三一)。第二波は前十四、十三世紀に活動、アブラハムがハランを出発、カナンに移動、定住への努力をする。
 この集団のカナン侵入には、常に先住部族との摩擦があったが、戦いではなかった。彼らは牧草を追いながら移動していた半遊牧民で、徐々に沃地に定着するようになったのである。

モーセ、出エジプト時代

 ユダヤ人にとって出エジプトは民族と宗教の確立の時であり、過越祭はこれを記念するユダヤ人最大の登りである。
 エジプトに移動したのは、しかし、全部でなく、一部のヨセフ集団であった(創世記三十七章以下)旱魃の時はエジプト、 ナイル川の食糧豊富なデルタ地帯に移動することがあった。エジプトに居住していた間に王が変わった。 かの有名なラメセス二世(前一二九〇―一二二四)である。 そして、多くの外国人が強制労働に従事させられたが、苛酷な扱いに耐えかねて、モーセの主導でエジプトから逃亡(出エジプト)し、 荒野を放浪しつつ、ようやく、カナンの地に帰り、モーセはそこで終わり、ヨシュアに指導者が引き継がれる。

ヨシュア、定着時代、聖戦

 半遊牧民の定着には先住部族との摩擦があるのは当然であるが、十二部族もあったユダヤ人は戦闘にまで持ち込み、土地を占領していった。 聖書ではヨシュアのエリコ城陥落の物語りから始まる(ヨシュア記)。 ヨシュアの業績は十二部族をまとめ、「主の戦い」、聖戦とも言われているカナン侵入作戦に成功し、士師の支配する部族ごとに定住をさせたこととされる。

統一国家、サウル、ダビデ

 十二部族の連合体は約二〇〇年続いたが、前一一世紀終り頃、ペリシテ人が、地中海岸に五つの都市国家を建設し、強力な軍隊で領地を拡大してきた。 ユダヤ人は今度は侵略に対抗せざるを得ず、王を求め、サウルが第一代の王に選ばれたが、王と言うよりは外敵の攻撃に、急遽立てられた、 軍事的指導を行うカリスマ的指導者で、精神的に民衆を鼓舞していった。
 しかし、サウルはペリシテ人に惨敗し、自害する。(サムエル記上三一章)。
 後継者ダビデは戦闘、政治能力に優れ、ペリシテ人を撃退、エルサレムを首都に定め、ここに十二部族の統一国家であるイスラエル国家が誕生する。 中央神殿を建てるには至らず、その子ソロモンにより、豪華な神殿が建てられ、イスラエル国は繁栄する。

侵入か平和か

 イスラエル(ユダヤ人)はパレスチナの地にメソポタミアの地から移住し、常に周辺の他民族の政治的、宗教的脅威を受け、 また和平の努力をしつつモーセ以来の一神教であるユダヤ教を守り抜き、一国家、一民族として成立に至ったわけである。
 この歴史的事実に三つの説がある。
 「統一的軍事征服説」と反対に「平和的浸透説」(軍事衝突もあったが、時を経過しつつ徐々に平和に定着)、「社会的変革説」である。 (社会的変革はカナンの先住の都市国家内部の農奴の貴族への反抗、解放で、農奴にイスラエルの部族が含まれるか否かであるが不明である)。

ダビデ、ソロモン、王国分裂

 ダビデはベツレヘムに生まれ、行動力と活力にあふれ、政治的才能に恵まれ、忍耐深く、自己の目標を目指し、部族連合の長、王となり、前九二二年、エレサレムを都と定めた。
 ダビデの後継者争いの後、その子ソロモンが王位についた(前九六五年)。 ダビデの王国は民族的にも財政的にも膨大なものであり、ソロモンの政治はこの維持、管理、充実であり、それに成功、「ソロモンの栄華」を極めた。 エルサレムに壮麗な神殿を建築し、ここにイスラエル人の宗教的、精神的、具体的な中心が確立された。
 ソロモンの死後、前九二六年、その子レハベアムの南部支配に問題はないが、北部の部族は世襲を認めず、争いの末、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまった。

北王国の滅亡

 前七四五年、新アッシリア王国のティグラト・ピレセルは西オリエント諸国を支配する野望をもち、 各地の占領の結果、ついに前七二一年、北王国は最後の町サマリアがアッシリアにより陥落、滅亡した。

「バビロン捕囚」、南王国滅亡

 南王国ユダはダビデ王朝とエルサレムを受け継ぎ、安定した歴史を歩んだ。
 前七世紀後半、アッシリア帝国が没落、ユウフラテス河からシナイ半島まで相続権を新バビロニアとエジプトとの間で争い、ユダ王国もこれに巻き込まれ、 前五八七年、新バビロニア王ネブカドレッツァルがエルサレムの城壁を突破、神殿と町に火がつけられ、南王国ユダは滅亡した。
 上層階級は捕囚としてバビロンに連れて行かれた(「バビロン捕囚」五八七年)。
 これが祖国への帰還と国の独立を願う、亡国と離教の民の始まりである。

ペルシア、第二神殿時代

 バビロンは前五三八年、ペルシア王キュロス二世により陥落。
 ユダヤの民はキュロス王の帰還許可命令により祖国に帰ることができた。
 新しい希望に満ちて、彼らは神殿の再興にとりかかったが、周辺からの妨害により二〇年中断、前五二〇年再開、前五二五に竣工、ソロモンの神殿(前十世紀)を第一、 この神殿を第二神殿と呼ぶ。第一の壮麗さにくらべ見劣りするものであったが、祖国帰還と宗教復興、王国の再建は大きな喜びであった(エズラ記、ネヘミヤ記)。
 ユダヤ人の地はペルシア以後も外国の支配下にある王国として存続、紀元後七〇年、ローマによる占領、破壊までの約六百年間を第二神殿時代と呼ぶ。 イエス時代の神殿はこれであり、またユダヤの民は政治以外は、その一神教、ユダヤ教を保持、発展させ、独自の文化を誇る宗教王国であった。

ユダヤ教の確立、律法

 ユダヤ人はバビロニア、エジプトまたその他の国々に離散しているものが多くあったが、彼らはパレスチナと離れていてもバビロニア捕囚の間に育成した神政共同体を確立、 ユダヤ人とはユダヤ教徒であることとなっていった。
 前四四五年ユダヤ総督ネヘミヤにより、エルサレムの城壁修理、前三九八年、律法学者エズラによって、社会制度は整えられ、 特にエズラはモーセ五書もしくは旧約聖書を文字で書かれた「成文律法」と「口伝律法」とし、「律法」の民、またそれを指導するラビのユダヤ教の時代が始まった。 口伝律法は成文律法の現実の社会生活全般への厳密な適用であり、徐々に集成され、後二一〇年頃「ミシュナー」としてまとめられている。ミシュナーの研究は積み重ねられ、 後四世紀末にエルサレム・タルムード、五世紀末にバビロニア・タルムードが完結、一世紀末に成立した(旧約)聖書とともにユダヤ教の「経典」となり、 ユダヤ人の独自性はいよいよ強化され、その問題が他民族、他国家との摩擦の根本的な原因となっている。
 ミシュナーの原義は、「教育学習」、この註解、解説をゲマラー(完成)と呼び、タルムード(原義は研究、教訓)は、本文ミシュナー、 註解ゲマラーから成り、ラビ(導師)のユダヤ教は、律法の中に六一三の戒律(義務律二四八、禁止律三六五)を含んでいる。 ラビは、元来「偉大なる」という原義、それが「わが主よ」という呼びかけ、敬称となり、律法に通じる学者のことであるが、歴史的変化の末、現在ではユダヤ人社会の精神的指導者、 シナゴーグ(ユダヤ教会堂)の説教者である。(「パレスチナ紛争史」次号につづく。)


訂 正

 暁烏敏師(あけがらす・はや)(四号二頁二段目)のお名前をこのように訂正します。上田和夫氏(英文学者)および佐藤文子姉の御指摘を感謝いたします。
 暁烏師は大正、昭和期に清沢満之(まんし)と共に浄土真宗大谷派の改革運動に尽力した名僧(上田和夫氏)。