ベストピア
ぶどう園通信

No.5 2008年3月

ユダ物語

滝沢 陽一

 イエスはその生涯の最後の一週間、群衆の「ホサナ」(主をほめよ)の歓声の中、エレサレムに入城し(教会暦日曜日しゅろの主日、今年三月一六日)、 木曜日、最後の晩餐を行い、その夜逮捕され、金曜日(受苦日)十字架刑に処せられる。(復活祭は今年は早く、二三日)。

裏切り者ユダの動き

「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、 『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。 そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」(マタイ二六・一四―一六)。

ユダ、イエスを「引き渡す」

「一同が席について食事をしているとき、イエスは言われた。 『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』 弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。 イエスは言われた。『一二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 人の子は聖書に書いてあるとおりに、去っていく。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった』」(マルコ一四・一八―二一)。
「それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(ヨハネ一三・二一―三〇)。
「そのとき、マリアが純粋で高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。 家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 『なぜ、香油を三百デナリオンで売って貧しい人に施さなかったのか』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。 彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ一二・一―八)。

ユダの接吻の合図とイエスの逮捕

「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。 祭司長、律法学者、長老たちが遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と、前もって合図を決めていた。 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた」(マルコ一四・四三―五〇)。

ユダの自殺と「血の畑」

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、『これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない』と言い、相談のうえ、その金で『陶器職人の畑』を買い、 外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで『血の畑』と言われている。 こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『彼らは銀貨三十枚を取った。 それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った』」(マタイ二七・三―一〇)(旧約・エレミヤ書一八、一、三二・七、ゼカリヤ書一一・一〇)。

弟子たち逃亡

イエスが逮捕された時、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ二六・五六)。

ペトロ、イエスを否認

イエスは大祭司邸で最高法院の裁判を受けていた。 「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガラリヤのイエスと一緒にいた』と言った。 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、わたしには分からない』と言った」
「そこで、ペトロは再び、『そんな人は知らない』と誓って打ち消した」
「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 ペトロは『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(マタイ二六・六九―七五)。

裏切りの理由

 大貫隆編著『イスカリオテのユダ』(日本キリスト教団出版局(二〇〇七年三月)というユダ・アンソロジーがある(詩文、論文などの抜粋を系統だてて集めたもの)。 これを紹介しようと思ったが、やはり非力のゆえ不可能であった。二千年にわたり、多様の文書に扱われ、多種多様な信仰、思想、心理学から文学までユダ論が展開されている。 結局、後述のように、時と場所を越えて、ユダに関心のある者、一人一人にひとりのユダがいるということである。
 大貫氏(東大、西洋古典学)は次のような文書のユダ記、ユダ論、ユダ観を挙げている。参考まで。

  1. 正典福音書と使徒言行録
  2. 新約外典(解説省略)ピラト行伝、バルトロマイ福音書など七編。
  3. グノーシス文書 カイン派の神話など六編
  4. 教文文書 パピアス、オリゲネス、アウグスチヌスなど五名、一〇篇。
  5. 中世の伝説 二篇。
  6. 文学・心理学
    ゲーテ『詩と真実』一五章、モーリヤック『イエスの生涯』、太宰治『駆け込み訴え』、遠藤周作『イエスの生涯』、ワルター・イェンス『ユダの弁護人』、 笠原芳光『イエス 逆説の生涯』、坂井信夫『イスカリオテのユダから見たイエス』、井上洋治『わが師イエスの生涯』
  7. 組織神学・新約聖書学
    シュトラウス、ルナン、シュヴァイツァー、ディベリウス、バルト、シュタウファー、クルマン、ボルンカム、プリンツラー、荒井献『イエスとその時代』、前島誠『ナザレ派のイエス』
  8. 結びに代えて
    H・J・クラウク(大貫氏が意見を同じくする現代ドイツ、カトリック神学者)『ユダ―主の弟子の一人』の結論部分の翻訳。
    ⑴冷静な諸事実
    ⑵問題の多い解釈
    ⑶解釈のカオス(混沌) 以上。

 本誌では次のような解釈をし、遠藤周作『沈黙』の重要な脇役キチジローを紹介し、各自が自分自身を見つめたることを願う。

聖書の読み方

「その男はあなただ」
 ダビデ王はある日、一人の女性(バト・シェバ)を知り、妻にしようとして、その夫ウリヤを激戦地に贈り出し戦死をさせ、バト・シェバを王宮に引き取り妻とした(サムエル記下一一章)。

この事を聞いた預言者ナタンは、王宮にダビデ王を訪ね、その不倫の悪事を責め、王にひとつの話をする。 一人の金持ちが、宴会をしようとし、貧しい男がたった一匹、子供のように愛し、共に生活していた小羊を奪って宴会に供してしまった。 王よ、あなたはいかに考えるか。ダビデ王は即座に、「そんなことをした男は死罪だ」と答える。
 預言者ナタンはダビデ王に告げる。「その男はあなただ」。(「あなたがその人です」口語訳)。

 聖書の読み方は色々であるが、ここでおすすめするのは、「私が、今、ここに、」聖書の中にいるといういわば宗教的実存主義的な読み方で、 聖書の中の人物一人一人は、「私」であるとすることである。聖書は昔話ではなく、第三者的な出耒事でなく、実に、まさに、この「私」のことなのである。
 さらに、ナタンは私に言うであろう。「ダビデ王はあなただ」。「ユダはあなただ」。

悔い改め

 私の内なるユダ、「ユダはあなただ」と静かに自己を見つめる。 しかし、ダビデ王は深い悔い改めの言動によって再び立ち上がり、イスラエルの象徴的存在、さらに、メシアがその子孫から生れると言われるようになった。 ペトロは「外に出て、激しく泣いた」が、ペンテコステの時、教会が生まれ、それを組織し、宣教(初代教会の信仰要義)を広め教会の礎石(ペトロは岩の意)となった。
 いずれも「お前はユダだ」という内心の声を聞きつつ悔い改めの中に、主の赦しの愛を信じて、希望を失うことなく、力強い信仰の人生のたたかいをなしたのである。

イエスの贖罪愛

「たとえ罪を犯したとしても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、全世界の罪を償ういけにえです」(ヨハネの手紙Ⅰ二・一)。

遠藤周作『沈黙』

 このキリスト教文学の最高の作品の中で、キチジローの存在を忘れてはならない。 早くから踏絵を踏みつつも、信仰から離れたのか否か、人々からさげすまれつつも隠れ切支丹と社会をいわば往復する、小心者である。
 「司祭」はついに「転び」(ころび)、踏絵を踏む。 遠藤周作が「キリストの死と救いの問題を投げかけた最も重要な場面であり、この小説のクライマックスであるが、小説はここで終わらず、 司祭が岡田三右衛門という日本人として(しかし、なお信仰を捨てきれずに)暮らしている。そのある夕暮れのこと、キチジローを登場させて終わっている。
 そして、ユダ、作者、キチジローは赦され救われている。そして私たちも。

遠藤周作『沈黙』新潮文庫版p292―295

 夜、風が吹いた。耳をかたむけていると、かつて牢に閉じこめられていた時、雑木林をゆさぶった風の音が思い出される。 それから彼はいつもの夜のように、あの人の顔を心に浮かべる。自分が踏んだあの人の顔を。
「パードレ。パードレ」
 くぼんだ眼で記憶にある声の聞こえる戸を見つめると、
「パードレ、キチジローでございます」
「もうパードレではない」司祭は両膝を手でだきながら小声で答えた。「早う帰られるがよい。乙名殿に見つかると厄介なことになります」
「だがお前さまにはまだ告悔をきく力のおありじゃ」
「どうかな」彼はうつむいて、「私は転んだパードレだから」
「長崎ではな、お前さまを転びのポウロと申しております。この名を知らぬ者はなか」
 膝小僧をかかえたまま司祭は寂しく笑った。今更、教えられなくても、そんな渾名が自分につけられていることは前から聞いていた。 フェレイラは「転びのペテロ」と呼ばれ、自分は「転びのポウロ」と言われている。子供たちが時々、家の門口に来て大声でその名をはやしたてることもあった。
「聞いて下され。たとえ転びのポウロでも告悔を聴問する力を持たれようなら、罪の許しば与えて下され」
(裁くのは人ではないのに……そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)と彼は黙って考えた。
「わたしはパードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」キチジローのあの泣くような声が続いて、 「この世にはなぁ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺のように生まれつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ……」
 その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。 私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。 人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。 その顔は今、踏絵の木の中で摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。 私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
 その時彼は踏絵に血と埃でよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は戸口にむかって早口に言った。
「この国にはもう、お前の告悔をきくパーダレがいないなら、この私が唱えよう。すべての告悔の終わりに言う祈りを。……安心して行きなさい」
 怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かし去っていった。自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。 聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。 今までとはもっと違った形であの人を愛してる。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。 私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。 たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。