ベストピア
ぶどう園通信

No.4 2008年2月

念ずれば花ひらく

  ~坂村真民の人と詩選~

滝沢 陽一

 「念ずれば花ひらく」。
 これは坂村真民(しんみん先生)という仏教詩人・宗教詩人・人生詩人の「言霊」(ことだま)であり、人口に膾炙(かいしゃ)している詩の表題である。

 「念ずれば花ひらく碑」、自筆を彫った石碑第一号は一九七〇年、先生六一歳の時、京都の常照寺に建立、以来各地にしんみん先生の信奉者によって建てられ、三〇三碑に及んだ。
 小原靖夫兄夫妻(相模原南教会員)は長く、しんみん先生の信奉者であり、三〇三番碑をエルサレム(ヘブライ大学植物園)に建てることを決意し、多大の困難、障碍を越えて、 平成六年(一九九四)復活祭を前に、ついに念願を成就、除幕式を私の司式によって行なうに至った。 相模原南教会から滝沢夫妻、小原夫妻、大貫姉、半間姉、神奈川教会から臼井姉、またしんみん先生、小原兄、イスラエル当局、日本大使夫人等の関係者、知人、友人が列席し、 エルサレムの青空の下、気候の異なる世界各国の植物を砂漠の地に育てようとしている植物園で、 碑の背面に世界の平和を祈る小原兄の訴えを日英両語で刻んだ碑の前で感動的な時を過ごした。 (また、私たち夫婦はかねて復活祭をエルサレム、キリスト復活の聖書記事に相当するとされている「園の墓」で行われる復活祭早天礼拝を含むイスラエル旅行を願っていたので、 小原兄がこれを機会として日程を定め、ツアーを組み、楽しい思い出にみちた聖地旅行が出来て、感謝のほかはない)。

念ずれば花ひらく

念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

 坂村真民(以下敬称略)四六歳、高校教師のかたわらの修行中、大病をなし、自力で克服、ひとつの悟りに近づいていったころの詩である。

坂村真民の人生

 しんみん先生は明治四二年(一九〇九)熊本県に生まれる。八歳の時、父が急逝、貧困におちいったが、県立王名中学に入ることを得、山坂往復一二キロの道を通った。 伊勢の神宮皇学館に進学、ここで短歌を作り始める。
 二二歳、皇学館を卒業、小学校教員となり、二五歳、朝鮮に渡り全羅南道順天女学校等の教諭となった。 この間「日本帝国主義の官憲による朝鮮人圧迫差別の現実を見て権力に対する反感、差別に対する憤り、貧困に対する同情を培う。詩魂の一つとなる」。
 二六歳、一時帰郷、結婚、二九歳、第一回目召集、二年後除隊、三二歳全州師範学校に赴任、 「頭の良い生徒が多く、朝鮮独立運動に目覚めた生徒が多数拘束された。身柄を引き取りに行き、抱き合って号泣すること多し」。
 三六歳、第二回目召集(八月六日)一五日終戦、一一月「何一つ持たず引き揚げ、熊本に戻る。 「二人目の娘を懐妊中の妻と長女を連れ、浮流機雷の危険一杯、乗船しても帰国の保障無し。兵服を着ていたので、釜山港で妻子と引き離され、憂苦言語に絶す」。
 幸いに家族と再会、四国、三瓶の私立高女の教員に迎えられ、個人誌「ペルソナ」を創刊、長い短歌生活(二〇年)に「自己確立への疑問」から別れを告げる。
 四二歳、四国、吉田高校に転勤、その地の大乗寺(臨済宗)にて河野宗寛老師に参禅、 「本当の詩人として生きるために、自己革命をしたかった」「参禅に足の裏の尊さに気付く。」禅の道を究め始める。
 四三歳、暁烏敏師(あけがらす・はや)に出会い、「疑えばひらかず、信心清浄なれば、花ひらいて、仏をみたてまつる」ことを悟る。
 四四歳、大乗寺に隠禅の杉村春苔尼に「運命的」な出会いをなし、 「厳しい参禅、厳しい自戒、激しい読書」の求道生活を導かれ、詩母さまと仰ぎ、精進を続け、また大病を克服する。
 四六歳、「念ずれば花ひらく」「めぐりあい」詩が生まれている。
 五一歳、京都大学の森信三教授、カリスマを持った指導者、思想家より来信、しんみん詩に感銘を受け、高く評価し、大きな励ましを受ける。
 五三歳、森信三先生への三回の訪問等ののち「不惑の決心」を与えられ、月刊の自分誌のみの「詩国」を創刊。五〇〇号まで続き、全国にその名を知られる。
 五八歳、「自選坂村真民詩集」を刊行。砥部町に居を定め、朴の木の下、タンポポ堂と称す。
 六五歳、教員を退職、詩一筋の道を歩み続ける。第一号碑が建つ。
 年一冊の詩集の刊行を発願した通り、次々に詩集が刊行され、文部省編「中学道徳指導要領三」に「二度とない人生だから」が採録され、 全国の中学校教員から一挙にその名と詩が知られる。
 七九歳、NHKが昭和天皇崩御の日の特別番組の中で「念ずれば花ひらく」を放映、坂村真民の人と詩の全貌が全国的に知られるようになった。
 しんみん先生を信奉する朴の会も各地であり、第八回全国の朴の大会が「詩国」五〇〇号記念で平成一六年、九五歳の二月に開かれている。 「坂村真民先生は平成一八年一二月一一日、九七歳の長寿を全うされたが、その「言霊」は長く人々の心に留まるであろう。

しんみん詩選

 朴とタンポポ

わたしが一番好きなのは
朴(ホオ)とタンポポだ

一つは天上高く
枝を伸ばしてゆく
山の木であり
一つは地中深く
根をおろしてゆく
野の草だからである

朴の花は
ほのかに匂い
タンポポの種は
訪れた人の胸にとまって
わたしの心を
伝えるであろう

この天上的ものと
この地上的なものを
こよなく愛するがゆえに
願えることなら
この二つを
わたしの眠るかたわらに
植えてもらいたい


 二度とない人生だから

二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでいこう 
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう (中略)

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎな思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日しずむ日
まるい月かけてゆく月
四季それぞれの
星星の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一編でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう


 「信も真もまことと読むが、信は真よりも早くできた字で、人偏に言うと書く。 わたしはこの字にこめられた古代の人の願いに心打たれ、好きである。 信念といい、信仰といい、人間が人間であろうとするための 燈火であり、信こそその燈心にあたる言葉であろう」。


花は歎かず

わたしは
今に生きる姿を
花に見る
花の命は短くて
など歎かず
今を生きる
花の姿を
賛美する
ああ
咲くもよし
散るもよし
花は歎かず
今に生きる


 「愛はすべてを結ぶ帯である。 仏陀は慈悲といわれたが、それは、この愛の本質を、もっと深く人間的に説かれたのである。 世界人類が愛で結ばれた時、初めて真の平和と幸福とが来るであろう。 お互いに愛のあかりをともし、消えないようにしてゆこう」。


花無心

濁りなき身に
濁りなきもの寄り来る

濁りなき心に
濁りなきもの映り来る

濁りなきものを恋い
路傍の花に向かう

花無心にして
蝶来り
蝶無心にして
花ひらくとや
噫々


石を思え

腹の立つときは
石を見よ
千万年も黙って
濁世(じょくせ)のなかに
座り続けてきた
石を思え


 「鳥は鳥で、魚は魚で、草木は草木で、実に美しい。 とても、人間ではかなわない繊細な感覚で、己を美しくしている。 思うに大宇宙そのものが、美の表現とも言える。 二度とない人生なのだ。 美の眼を開き、生活を楽しいものにしてゆこう」。


尊いのは足の裏である

尊いのは
頭でなく
手でなく
足の裏である。
一生人に知られず
一生きたない処とし
黙々として
その務めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの
しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ(下略)


両手の世界

両手をあわせる
両手でにぎる
両手で支える
両手で受ける
両手の愛
両手の情
両手合したら
喧嘩もできまい
両手に持ったら
壊れもしまい
一切衆生を
両手に抱け


鳥は飛ばねばならぬ

鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒濤の海を飛びゆく鳥のように
混沌の世を生きねばならぬ
鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ


めぐりあい

人生は深い縁(えにし)の
不思議な出会いだ
世尊の説かれた輪廻(りんね)の不思議が
今のわたしを生かしてゆく
大いなる一人のひととのめぐりあいが
わたしをすっかり変えてしまった
信じられなかったものが
信じらるようになり
何もかもがわたしに呼びかけ
わたしとつながりを持つ
新しい存在となった