No.3 2008年2月
一精神科医として生かされて
功刀 弘
私は現在、精神科医として充実した仕事の日々を過ごしています。祖父母から母を通して継承された信仰は三代目の私と結婚してから妻へ、
そして四代目の三人の娘たちにも継承されたので、五代目の孫たちもそのようになることを祈っています。
信仰の継承は主の宣教のご命令に応える上で極めて大事なことです。その点、わたし自身と家族は恵まれており、これは神様のご恩寵しか言えません。
そのことをとても感謝しなくてはいけないと思っています。
そしてさらに、そのようなことが可能になったのは元甲府教会員で
横浜に転居した祖父・三井修策と祖母の涙と励ましと援助をとおしてお示しくださった主のご恩寵にほかならないと思っています。
祖母は九十九年の生涯を十七年前に終えて天に召されました。
祖父母は子供たちの教育のため旧満州の病院を退職して昭和六年に甲府に帰国して外科医院を開業しました。
この山梨で過ごした二十年余の間に五人の子供のうち、戦争と病のために三人を亡くしました。
残った一人の息子は終戦とともに技術将校を除隊し、失業のさなかに妻の親の会社に就職して神奈川県藤沢へ去りました。
残った一人の娘・私の母は満州に嫁ぎ、戦後のある時期までは行方も知れない状況でした。
昭和二十年、祖父母は甲府の家を七月の大空襲で、開業していた医院もろとも焼失しました。
さらに残された末娘もそのために十二歳で亡くなり、絶望の中に長坂の五町田に隠遁していました。
そして昭和二十二年、私たち十歳をかしらに三兄弟が三十歳の母に連れられてリュックサックひとつで帰国し、この祖父母の前に現れたのです。
すべてを諦めていた六十四歳の祖父、そして五十六歳の祖母はこの孫たちのために再度愛宕町に小さな医院を開業して、小学生の私たちを応援してくれました。
私が高校に入る頃父は満州からの引き揚げの苦労から結核を病み、無一文の結核療養所暮らしとなっていました。
祖父・三井修策に連れられて甲府教会に通っていた私は中学一年生のときに洗礼を受けることを勧められ、
兄弟三人は甲府教会の小野善太郎牧師の前で祖父に促されるように面談し一九五〇年十二月のクリスマスに洗礼を授かりました。
私はその後中学を卒業する頃、藤澤に去った叔父の元に世話になり、東京の高校に進学して勉学に励むことが出来ました。
私が高校二年の頃、父の結核が進行し、東京で肋骨七本を取る胸郭成形手術を受けることになりました。
このような状況にあるとき私たちのために祖父七十一歳、祖母六十三歳の時、
祖父母は甲府のすべてを売り払って横浜に転居し私たちの勉学の応援をしてくれたのです。
私が大学に入るころ、父は病から回復して神奈川教会で滝澤陽一先生から洗礼を受けました。
キリスト信仰の家族内での継承が強調されています。
私どもは妻もそして三人の娘も受洗しましたがこのようなことが可能になったのは祖父母から連綿として続いた辛い悲しい出来事の上に
神様が与えてくださったお恵みだったと今にして思うのです。神保信一兄はキリスト新聞に祖母のインタビュー記事で次のように記しています。
「昭和二十二年、一家はリュックサック一つで突然帰国された。小学校四年を頭に三人のお孫さんたちが三井夫婦に与えた歓喜は、 筆舌に尽きるものではなかった。元気な孫たちを見て一躍勇気を得た三井夫妻は、さっそく甲府に戻って開業をはじめた。
──三井義さんはローマの信徒の手紙五章の“苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生む”の言葉を引用して至福の境地を語っています。」(一九七六年四月三日)
さて、私は今年七十歳になりましたが、この間に十年に一度の大病を経験してきました。
三十代では患者の往診の失敗から瀕死の重傷を受けたり、
小学生のときに失明に近い怪我をしてそれが基で四十代では交通事故を起こしかねないほどの危険な視力となり、
外傷性白内障の手術を受けたり、五十代では数歩も歩けなくなってヘルニアの手術を受けました。この時は、
甲府教会に通う家内はYMCAの英語教師をしながらクリニックを采配して応援の精神科医によってこれらを乗り越えて今日の仕事を続けることができています。
祖父母の苦難の中からの応援、両親の困窮そして私の病などこれらの経験の全てを積み重ねることによって、
私は毎日接する患者様の病気や困窮の苦しみを共感することが出来るようになってきました。
私どもにとっても今日、降りかかるような人様には計り知れない艱難が子供たちや孫にも迫っているのも事実です。
病んでいる方はその苦しみを私の前で吐露して医療の助けをあるいはそれ以上の解決を求め、
あるときは感謝されあるときはもっと救いになることはないのかと迫ってきます。その苦しみを私はこれまでの自身の経験から精一杯理解するようにしています。
クリニックでは解決不可能なことを訴えてくる方もいます。それはただ共感をこめて受け止め聞きながら患者の苦しみをともに担うしかありません。
多くの困難それは、経済的にも家庭状況からもそして病の重さからも私の僅かの働きでは解決不能に思えることが毎日のように迫ってきます。
絶望の中に訴えられる事柄に私は自信を持って大丈夫ですと、接していけるのはこれまで私が経験したことが宝となって支えてくれるのではないかと思っています。
とても辛い訴えをしている患者さんがときに街角で楽しそうに歩いているのを見かけます。
それを見かけて私はほっとした気持ちになります。私たちは自分がつらい思いをしているときに、元気そうな人を見ると羨ましいとか妬ましいと思いたくなります。
しかしこのように私は仕事柄どんな幸せそうな人を見ても、その人の影に辛い人に言えない悩みを抱えているのではないかと考えてしまいます。
昨年の二月に私は母を認知症で亡くしました。八十八歳でした。十年ほどの闘病でしたが、
最も診断と治療の難しい前頭側頭型認知症であったために、初めの数年間は認知症であることが精神科医の私にも思い及びませんでした。
そのころ横浜で隣家に生活していた私の弟も弟嫁に母の異常な様子を訴えられても、そんなことがあるはずがないと逆に嫁を責めたといいます。
後で振り返ると母は十年間もその病に苦しんでいたのですが、そのころまでの私はそれを察知できませんでした。
その対応には悔いの残ることも沢山あります。そのことを今、私は後悔しているのではありません。
日ごろの仕事のうちには認知症の心配をする年配者やご家族がたくさんいます。
認知症についての放送や新聞記事もあります。早めにどうしたらよいのか、母親は身をもって私に教えてくれていたと思えるようになってきました。
職業柄反省することもたくさんありましが、最後の四年間に限って云えば認知症の母に対して出来るだけのことをしてきたつもりです。
亡くなる半年前と二年前にはそれまで通っていた指路教会の藤掛牧師から病床聖餐もしていただきました。
病の末期が近づいてきた頃、早めに葬儀の喪主を弟に任せることも打ち合わせておきました。
昨年の二月二十八日夜十二時直前、東京の病院に詰めていた弟達から母が危篤の状態に入ったとの電話がきました。
私は翌日の診療のこともありましたので、覚悟を決めて「明日の夕方には母を見送りの枕辺の集いに行くと」伝言してそのまま熟睡に入りました。
妻は私の熟睡に驚いていましたが、神様が明日の仕事のために安眠を下さったと私はひそかに感謝しました。
ルカによる福音書四章にあるように、
「イエスはその一人ひとりに手を置いていやされた」とのみ言葉を読んで、難しい病気もイエス様が癒されることを信じ、
私は小さな僕としてできるだけのことをする、後は神様の癒しの手を祈るばかりの心境で困難な仕事に取り組んでいます。
私は心を病む方々の健康維持に何より大事なことは心安らかな、平安だと思います。できるだけのことを尽くしてあとは何の不安も抱かずに安心して眠ること、
そのためには医学的には何らかの薬を必要とすることもあります。
その上で今、自分に出来ることは全力で取り組む、それは短期決戦の場合もあります、また長期に渡って時間を掛けることが必要なこともあります、
いずれにせよ結果は神様にお任せするしかありません。
いつかは神様の下に行く私たちです。その道のりをパウロのように目標を目指して走る以外にないと思います。
迷いと不安から次々に不安が湧いてくると安らかな眠りにつくことができません。
私のこのような、単純に祖父に教えられるままに洗礼を受けた中学生のような気持ちで、いずれは神様の元に行くことを信じることだと思います。
それは今では鈍感力と言うのでしょうか、或いは脳天気というのでしょうか、しかし私はこのような眠りを与えてくださるのは神様から与えられている平安、
一日の苦労は一日で足りる、思い煩うなとのこと、がそのようにしてくださると信じています。
このように平安を与えてくださることを二千年前に悩める人々に手を置いて癒されたイエス様の聖なる業を記した聖書を読み、
主なるイエス様、聖霊の働きを信じ、祈ることを教えられています。神様の与えてくださる平安を感謝して私の証といたします。
(第五十二回山梨分区信徒大会 証 くぬぎひろし)
感謝。功刀兄は神奈川県教会で信仰生活を共にしました。当時の多くの兄弟姉妹のことも思い起こし、なつかしく思います。
人のいのち
先日、最初に赴任した教会以来の教友が他の親しい教友の分も含めて見舞いに来てくれた。重病で(事実、重病であるが)、
寝ついていると思ったらしく、高級メロン持参、三〇分で帰ると家内に言っている。
(むかし、むかし、病室に桐の箱に入ったメロンが届くようになったら終わり近いと病人は自覚したという。──失礼)。
彼は私が元気な姿を見て驚いていた。私たち夫婦も喜寿のはずの元気な彼を見て驚いた。
むずかしい病気をしては、長年、夫人、家族や友人達に心配をかけていたからである。
最終的には淋巴腺癌になり、全身に広がり、明日をも分からないことになった時、新薬が出て、保険がきいて、高価であったが、
その薬が特効薬であって、あっという間に全快してしまったのである。今は制癌剤など癌系の薬は一切飲んでいない。
ところが、同じ病気の他の人にはこの特効薬が効かないことがあったのである。
人の命はいかに高度の医療、学問が進んでも、その長短、時期はわからないと示された。本誌一号の通りである。
「一期一会」 (千利休の弟子山上宗二のことば)
「日々是好日」(『碧厳録』臨済宗の禅問答集)
『親指の恋人』
携帯電話の出会い系サイトで知り合った主人公たちの恋の物語であるが、ロミオとジュリエットと同じように悲劇に終わる新刊小説の題名であるという。
「親指」(メールを打つ)。世の中の一切が電子化されパソコンやケイタイで事が運ばれている。それは当然であるが、そこから生じる最大の問題は「人間」の喪失であろう。
話は戻るが、この教友との語り合いは三十分どころか、時間を忘れて、談論風発、三時間に及んだ。
彼は若いときからこの通りであった。うるさ型といえるかもしれないが、穏やかな笑顔の人であり、今も変わらない。
しかし、自分自身の考えや主張、また批判力を持ち、それを熱を持って語り続ける。
そして、彼の話を聞き、理解し、また批判し、反論する力がある、よい聴き手である、私があい対している。
それゆえ、その語り合い、対話は、内容の充実したきわめて楽しいものとなり、時の過ぎるのを忘れる。
牧師の性格・傾向と信徒の関係は多様ではあるが、このようにひとりやグループで膝を交えて親しく語り合うような関係がないと、
すべて口先や観念や形式的な組織に終わってしまって、人間の姿が見えなくなり、そのうちに教会は分解してしまう。
私自身もいつの間にかこのようになってしまい、今は深く反省している。
社会の全般にわたって、人と人が話し合うことがなくなってしまった。「親指」のためである。 心と心が全く通わない人間と人間の単なる集合体に化しつつある。 双方ともにあるいは一方的に閉じこもりその人「一人」だけがいて、簡略した無言の言葉が親指の先から送られている。そして社会全体の仕組みが、 親指の先で運営できる歴史的な変化ないしは進歩、発展を遂げたが、「品格」のある「人間」は存在しない。
主イエスは、疎外され、孤独のザアカイに親しく名前を呼びかけ、ザアカイの家に行き、 食事をともにして語り合い一夜を過されたのである(ルカ福音書一九・一)。
