ベストピア
ぶどう園通信

No.2 2008年1月

空の空

滝沢 陽一

コヘレトは言う。
空の空 空の空 空の空なるかな
すべて空なり。
日の下で人が労するすべての労苦はその身になんの益があるか。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風をとらえるようである。

わたしはわが手のなしたすべての事それをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。

コヘレトは集会で語る者の意味。「言葉」は旧約聖書の一書、以前の聖書協会訳では「伝道の書」。
 オリエントの古代社会では、政治が安定し、教養のある階級が形成されると、各自の教養、青少年教育にたずさわる知恵の教師が必要となる。 彼らは古代からの人生訓を収集、特に詩的表現、格言風の言葉を好んだ。
 この書は紀元前三世紀、ギリシアのプトレマイオス朝、貨幣経済が大きく発展した時代に成立、 日本のバブル期やその崩壊を語っているかにも思える知恵の書であり、「空」の人生観を説く。

 「観自在菩薩 行深般若波羅密多時照見五蘊皆空」般若心経はこのように始まり、 「色、受、想、行、識」(五うん)という五つの人間の営みを照見すると「皆、空である」言う。
 新共同訳(一五八九)は「なんという「空しさ」と訳したが、不適切である。 「空」は「くう」という名詞であり、般若心経とあい通じ、ただ「空しい」というのではなく、 「現象はあるが実体を欠き、常に変化し無常であることを言い、「完全な無」と訳した学者もいる。

『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』
しかし、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる』と言われる(ルカ福音書一二・一九)。
「今日か、明日、これこれの町へ行って、金もうけをしよう」という人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか分からないのです。 わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(ヤコブ四・一三)

新約聖書の根底にも「空」があり、無常観があり、それ故にこそ人間の救いと平安が求められ、そして与えられている。

すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時があり、
働く者はその労することにより、なんの益をえるのか。(三・一―九)

この有名な言葉は続いて「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられる」とあるので、 信仰者には肯定的に受け入れられている。
 しかし、大きく分けて、二つの相反する解釈が生まれることを知らねばならない。

Carpe diem(ラテン語で「その日をとらえよ」
 これは紀元前三世紀のギリシアの哲学者エピクルス、エピクルス派の格言であり、明日の命は分からないのであるから、 その日、その日を生きている間に大いに楽しめということである。
 しかし、これと正反対に、これは中世の修道院の標語であり、永遠の今、一期一会、いつ命が終わるか分からないのであるから、 一日一日を誠実に、神の戒めに従って生きよ、とも解釈されている。
 前者は宿命論、運命論、刹那主義、快楽主義であり、後者は、すべての事は神のはからい、摂理、救済論となる。

 ここで新井満『自由訳・般若心経』が書棚にあったことを思い出した。新井氏は芥川賞作家であるが、広告会社の名プロデューサー、 リレハンメル冬季オリンピックの長野デモンストレーションの演出など、きわめて多才な人である。 そして、「千の風になって」を訳し、作曲し、二〇〇七年、日本に紹介し、ブームを起こした人である。歌手としてもすばらしく、 この歌一つで有名になった、鼻声の変な歌手など問題にならない。 (「千の風になって」の思想は仏教、キリスト教の信仰とは全く異なり、その大流行は宗教家たちを悩ませ、考えさせている)。

 新井氏の仕事の一つに仏教書の自由訳があり、「般若心経」の一部をここに紹介する。

──空の意味は、よくわからないのですが、──観自在菩薩は、話をつづけた。
「この世に存在する形あるものとは、喩えて言えば、見なさい、
あの大空に浮かんだ雲のようなものなのだ。雲は刻々とその姿を変える。
そうして、いつの間にか消えてなくなってしまう。
雲がいつまでも同じ形のまま浮かんでいるなどというということはありえないように、
この世に存在する形あるものすべてに、永遠不変などということはありえないのだ。
すべては固定的ではなく、流動的なのだ。自立的でなく、相互依存的なのだ。絶対的ではなく、相対的なのだ。
今そこにあったとしても、またたくうちに滅びてしまう。
そうであるならば、そんなつかのまの存在に対してあれこれと、こだわったり思い悩んだりするのは、ばかばかしいことだと思わないかね──」
 (色即是空)
「舎利子よ──」「はい、観自在菩薩様」「今度は、あなたのことだ。
──あなたは意味もなく、この世に生まれてきたわけではない。無数の様々な原因と条件が寄り集まって、生まれてきたのだ。
つまり生まれる意味があったからこそ、あなたは生まれてきたのだ。
今、生きているあなたとは、奇跡のような存在であると言っても、過言ではない。まことにまことに、ありがたい存在でもあるのだよ」

「心の中で思い描いて見なさい。宇宙全体をくまなく、とうとうと流れつづける、いのちの巨大な運動体、宇宙大河を──。
宇宙大河は、無数の一滴が寄り集まって成り立っている。
その中の一滴は宇宙大河を成し、宇宙大河は一滴に依存している。

「舎利子よ、なぜあなたはこの世に生まれてきたのか?。」──
「それは、“役割”をはたすためなのだよ」「役割・・・」
「そう。自分以外の他者と、人間以外の無数のいのちのために、何ができるか。
あなたでなければはたせないあなただけの役割をはたすために、あなたはこの世に生まれてきた。そのことを決して忘れてはいけないよ」
 (空即是色)
「──さとりを求めて修行にはげむ者たちは、さとりに至る智恵、即ち空哲学のおかげで、何かにこだわったり思い悩んだりすることがない。 心にこだわりがないから、何かを恐れることも、ない。決して偉ぶらず、ひかえめで、常におだたかな表情をしている。
だから、迷うことなく、さとりに至ることができる。満天の星のように。
過去、現在、未来に輝く無数の仏様たちに見守られ、助けられ、導かれながら、さとりに至ることができるのだよ。」
(菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
──究意涅槃──)
(般若=知恵。波羅蜜多=究極の悟りに至る実践修行。色=しき。形あるもの、物質。拡大解釈して、充実した現実の生)
 「死に際で判断するな」
 釈迦の死因をご存じか。ただの食中毒。年老いて八〇にもなり、粗末な生活の中、暑いインドでテクテクと歩き回っていれば、 誰だって食あたりになる。おなかをこわした釈迦は次第に体力を消耗し、そのまま亡くなった。 仏教という、世界に類のない知恵深い宗教をつくった釈迦のような人物でも、死ぬときは普通に食中毒で死んだのである。──
 私の生き方は、今、ここにいる私の、この姿である。人生の意味は、その人生の全体にある、長く続く日常の中で、 毎日積み重ねていくわずかばかりの行いや思いが、少しづつ積もって、自分でも気づかぬうちに人生を形づくっていく。 たとえ最期が悲惨であったり、苦しいものであったとしても、そんなことですべてが否定されるほど、人の一生は薄っぺらではない。──
 安らかに逝く人の姿は素敵だが、それよりも、誇りをもって自分の正しい行き方を決めていく人の姿の方がもっと素晴らしい。
 (佐々木 閑・花園大学教授)

 コヘレトは、「空の空」とうたい出し、地上と人生の具体例を挙げつつ空である世界を描き出すが「神なされることは皆その時にかなって美しい。 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(三・一二)と思わず書いてしまった。
(すぐに思いを戻して、空の世界に入ってしまうが)。
 しかし、おそらく、紀元前二世紀半ば、いくつかの宗教文学書がユダヤ教の正典とされた時、 この一句の存在または挿入によって聖書の正典として 採用されたのではなかろうか。
 人生を空と観じた時、空ではあるが、生きることを怠り、歎き悲しむのではなく、自己が永遠より永遠に至る時の流れの中で、 今、ここに、かけがえのない一人の存在として生かされていると観じる時、「神のなされることは美しく、人は心に永遠の思いを授けられ、 「色即是空」はそのまま、「空即是色」と変わり、人はそれぞれに生きる他にかけがえのない「役割」を与えられているという悟りに到達するのである。

 「その時宜にかなって美しい」。この言葉は一つの美しい夫婦愛の物語を思い出させる。空の世界に生き、空の中に終わる行為の中に、 この上なく美しい愛が示される。『賢者の贈りもの』(ベツレヘムの馬小屋に、遠い東方から旅をして、キリストの誕生を祝い、黄金、没薬、 乳香を贈った星占学博士たち)、O・ヘンリー(一九世紀末、米国作家)のこの物語はクリスマスに留まらない。
 クリスマスの贈り物として、妻は自慢の美しい長い髪を切り落とし、かつら屋に売って、夫が大切にしている家族伝来の金時計のくさりを買う。 夫は妻の長い髪をかざる髪かざりのセットを買うため、金時計を売ってしまう。イヴの夜、長い髪は切られ、金時計も無い。 お互い空しく終わった贈り物、しかし、その「空」の中に、美しい愛は輝いている。

 「ぶどう園」の労働者で(マタイ福音書二〇・一)で、能力のある者は、夜明けから雇われ、次に九時、十二時、さらに三時に雇われた。 ぶどう園の主人は夕方の五時に行ってみると「だれも雇ってくれないのです」と言う人々がいたので、これも雇った。
 夕方、仕事が終わり、主人は全員にひとしく貨幣の一デナリオンを支払ったので、早朝からの労働者が不平を言った。 しかし、主人は「この最後の者にも」あなたと同じように支払ってやりたいのだと譲らなかった。
 イエスのこのとたとえ話は多様な解釈があろうが、労働者に身を置いてみると面白い。 早朝の者は報酬の当てが外れ、色即是空と悟り、五時の者は人生を空と観じたところで空即是色と悟る。

 「思い悩むな」
 コヘレトの言葉を受け入れる者は、すべてを神に委ね、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、 神はこのように(ソロモンの栄華を越えるほどに)装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ福音書六・二五)と、 「空」なる世界はそのままに一切の思い悩みを捨てた「平安」が生まれる。

 「明日のことまで思い悩むな」
 「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ六・三四)。 「空」なる世界で明日のわが身は分からない。「何事にも時があり」それは神の御手のなかにある。 それ故、「今」この平安の中に、かけがえのない自分の二度と来ない今日という日を大切に生きるのである。