2010年 6月号 第280号
1.B夫妻の思い出と伴にパリビジット
15年ぶりにパリを訪れ、6日間滞在してきました。いくつかの目的をもった旅でしたが、パリでの体験は想定外の感動を味わうことができました。
顧問先のB社社長夫妻とパリで待ち合わせをして、ある人を訪ねるという計画をして旅立ちました。
B夫人が13年前にパリで難病の手術をされ、完治し、その御礼のために高齢になられた主治医(フランス人)その他の人々を訪ねる、それに同道させてもらうという心暖まる数日間でした。
B夫人は三人の子供さんを無事に出産した後に、ある難病を発症、8年間に渡り、日本各地の病院、民間療法を試みましたが、日本には例のないものとし、誰も手がつけられませんでした。
しかし、ある時、フランスの学会から帰国された某医師が、パリの先生なら手術をしてくれるかもしれないという、かそけき情報を入手し、根気よい努力と周りの人々の協力を得て、
当時はまことに「命をかけて」パリへ手術をするための、長期の旅立ちをすることになりました。複雑な全ての手続きも恵みに助けが増し加えられ、その教授の診断で手術をすることになりました。
しっかりとした、かつ信頼できるインフォームドコンセント(医学的処置や治療に先立って、それを承諾し選択するのに必要な情報を医師から受ける権利。
医療における人権尊重上、重要な概念とし各国に普及、今では日本でも常識化している)に基づきB夫妻は手術を決断されます。執刀するのはキッパーを頭にのせたユダヤ人医師。
全信頼をするのにどんなに力が必要であったかは、思い図ることができないものでした。6時間を要する大手術が終り、ひとまず成功の知らせを聞いて安堵したものの、60日に及ぶ入院生活を思うと一度はお見舞いしなくてはと、
私の気がはやります。しかし当時の私は複雑な仕事を抱えて現場を離れることはできず、代理を送るという失礼をしてしまいました。
奇蹟が奇蹟を呼ぶというのでしょう、この手術の決断に勇気を与えたのが、K姉の存在でした。
何とK姉はB夫妻の高校時代の友人で、パリで素晴らしい仕事をしている人でした。このK姉が医師との会話、説明の全ての通訳をしてくださり、不安を最小限にした入院生活を送ることができたのです。
又、現地で初めて出会った日本人の牧師夫妻も娘のようによく面倒を見てくれました。
人種、民族、宗教の壁を超えた協力体制には人間の美しさが光り輝くダイヤモンドのように見えます。
B夫人は元気になり、好きなテニスや激しい運動、三人の子供たちのサッカーのお世話とハードな日常生活を何の苦もなくサラリっとこなされるさわやかさを周りの人々に与えて日常生活をされています。
私がパリに行くという話しから、B夫妻も「パリで会いましょう」ということになって計画をすすめている間に、B夫妻にとってパリ行きは必然のものになりました。
それは主治医が高齢になられていること、フランスの医学会で最高の勲章をいただくことになったこと、牧師夫人が大病で入院中であることなどが重なり、B夫妻の心はパリの空の雲になびかれ、パリは彼らを呼んでいたわけです。
再びK姉の並々ならぬお世話で老教授夫妻を訪ね、13年前の手術跡をみてもらい、教授からは、この完治の様子をデータに残したいとも言われ、逆にパリの病院にある全てのデータのコピーを持って帰るように言われました。
この大手術はこの教授の人生の中で15の記憶に残るものであったと話されました。どんなに重篤なものであるかが判ります。
翌日、私たちは牧師(パリで日本人向けに伝道をしている日本のプロテスタント教会)さんの迎えを受け、パリ郊外にある同夫人の入院されているリハビリ病院を訪ねることになりました。
60日に渡る外国での闘病生活、毎日日本からの付き添いもままならず、現地の方々の手助けを受けたわけですが、その筆頭が今入院されている牧師夫人でした。
13年ぶりの再会で、病室に花が咲き戻ったかのように明るくなり、牧師夫人の記憶も確かなもので、B夫人の完治を大変に喜んでくれました。
今は自らの病と闘い、私の推定では70才を超えられているようですが、牧師を支え、教会の中心柱になっているような感じでした。手を取り合って喜び合う親子のような姿に私たちは感涙にむせぶ時をいただきました。
私自身も、単なる税理士業だけでなく、人の生死に係るおつきあいをさせていただいたお蔭で、年をとっても、こんな感激の場面に居合わさせてくれる恵みに感謝をしつつ、別れを惜しみました。
2.ユーローは庶民も翻弄
(1)ベルリンのデモ
“私たちのユーローはこの先、どうなるのでしょう”こんな溜息まじりの会話が頻繁に聞こえてきました。ベルリンではトルコからの移民の人々が大規模なデモ行為をして、仕事の確保を訴えていました。 私はコンサート会場の前で複雑な思いで、その整った行列を見ることしかできませんでしたが、その数の多さには圧倒されます。 ドイツでは700万人のトルコ人がいるとのことで、最底辺の人々が、リーマンショックの大きな余波を受けている訳です。
(2)パリのハンスト
パリでは大掛かりなハンガーストライキがアフリカからの移民(アルジェリア、モロッコ等)の人々によって決行されているところに直面しました。 情報に疎い私は、はじめは南アフリカのサッカーの余波かと思い、その群集の中にどんどん入っていったのですが、その中心には、巨体ながら空腹でうめき苦しむ黒人男性の集団を見てしまい、カンパをして道をはずれました。 その朝は、ホテルの中で台所を預かる人々が、ホテルの中でデモ行為をして、国際的に自分たちの苦しさや待遇の改善を訴えていました。 サッカーの中継でもわかるように、アフリカの人たちの声は大きいので、何の騒ぎかと、ぎょっとすることがパリでは多くありました。自由、平等、博愛の出発点の地の底辺にある問題が浮き彫りにされています。
(3)中国人の人々の力と蔭
今回、私はパリに六泊し、ホテルを三つ変えました。地域とホテルの質を変えて泊まってみたのです。最後のホテルは、10m先に中国人公使館があり、200m先にはルイ・ヴィトンの大きな建物がありました。
ルイ・ヴィトンは、入場制限のため、毎日どの時間帯でも長い列ができています。殆どが中国の人々でした。近くまで行って日本人がいないか確認しましたが、あの雰囲気の中では日本人はいられないでしょう。
お店側もお金を落とす量の多い方を商業的なマインドで歓迎するでしょう。
一方、20m先の中国人公使館、月曜日の朝早くからルイ・ヴィトンよりも長い長い行列ができているのにびっくりしました。その日の仕事をもらうための手続きです。中国の人々も多民族です。
我々が見慣れていない漢民族以外の民族色彩豊かな中国人が騒然と並んでいます。昼過ぎにその列はなくなりましたが、翌日は又同じ光景です。
220mの差の中に中国の豊貧の差をパリで目撃したことになります。
ルイ・ヴィトン組は本国からの旅人、一方はパリに居留する底辺を支える中国の人々。
共産主義の資本主義化という微妙な流れの目に見えないところで、権力構造(支配と被支配)によって同じ国籍の人々が多岐に分離分裂していってるのです。
中国本土でもこれからこの現象が更に表面化して革命的な動きになっていくように感じました。
その時、バブルが崩壊し、世界にまたしても激震が走ります。日本への影響も計り知れないでしょう。
その他ユーロー圏のことについて書きたいのですが、なにしろ私には8月22日が迫っています。詳細は9月以降にして、(9月には、もう一度訪欧します)続きを書きます。
本月号の最後には、パリで私がどろぼうをつかまえ、被害を未然に防いだことを記して終わります。
