ベストピア
月刊ベストピア

2009年9月号 第271号

私たちの8月15日 その2 一歩の距離

 八月は広島平和宣言と長崎平和宣言が毎年発表されているが、今年は米国が原爆を落とした非を認めたオバマ大統領のプラハ宣言が引用されている。 先月号での広島の子供宣言に続き、末尾に長崎市長の平和宣言を掲げることにする。
 このように八月は原爆と敗戦の思いを抱きながら、高校野球で平和の尊さを噛み締めてゆく、戦争のない有難さである。 前号に続き、城山三郎さんの「一歩の距離」の紹介をしようとしていた矢先に、NHKが8月9日から三夜連続で日本帝国海軍についての番組を放映した。 海軍の中枢部にあった(軍令部の参謀の参加)人々が、密かに集まり、誰にも語っていなかったことを話している。 海軍反省会のテープをもとに、第一回目は「海軍あって国家なし」、第二回目は「やましき沈黙」、 第三回目は「第二の戦争」(敗戦処理の中でいかにして海軍従事者の処罰を軽くするかの戦)をテーマとして、この大戦が何のために(大義)、 誰が負けることが明白であるのにはじめたかを検証しようとしている。これらの詳細は時期を見て原稿にまとめてみたいと思う。
 三夜の映像や話を聞いて、私は城山さんの小説の意味をより深く理解することができるようになった。

 

 1.予科練習生徒とは

 「一歩の距離」は昭和18年(1943年)、日本の敗色が日ごとに濃くなってゆく中、第13期予科練生(海軍飛行予科練習生)が主人公となっている。
 予科練生とは、もともと高等小学校卒業者で、満14歳以上20歳未満で厳しい試験に合格した者のみ採用された中堅幹部育成の為の教育を受けた者とされるが、 昭和12年(1937年)更なる搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了(後に3学年修了)の学力を有し、満15歳から20歳未満の志願者に拡大、 更に昭和18年(1943年)から戦局悪化に伴い、兵力増員、志願が半ば強制的になっていく。願書を出さぬ者は、一人一人担任と一緒に校長室へ出頭、 父兄も呼ばれる。出さぬ者は非国民扱いされるようになっていた。18年頃の戦死率は80%、昭和19年に入ると特攻要員の中核となり、多くが命を落とすことになる。
 少年たちは飛行機に乗れるということが、大きな憧れであった。制服もかっこよく七つ釦とされ、 海軍は形式(外形)を整え少年たちの純真なる心につけ込み志願しやすい環境を作っていった(1942年予科練の制服を今までの人気のない水兵服から軍楽兵と同様の短ジャケット七つ釦にし下士官型軍帽を与え人気を高めようとした)。

 2.当時の戦況

 戦況は山本五十六の「やれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧に入れます。 しかし、その先のことは全く保証できません。」との言葉の如く、昭和17年(1942)6月15日から始まるミッドウェイ海戦によって大きな打撃を受け、 今までの優勢が劣勢に変わり、昭和18年(1943)4月18日、 山本五十六連合艦隊長がソロモン諸島ブーゲンビル上空で米軍戦闘機から撃墜され戦死(これは米軍に通信文が傍受され狙い定められた)、 最高指揮官の乗った飛行機が撃墜される。そんな信じられない事実が象徴するように、開戦当初の勢いはなくなって、制空権は奪われたまま飛行機と搭乗員の激しい消耗が続いた。 消耗を補充する為に、海軍が選んだのが予科練生の増員手段であった。

 3.登場人物

 登場する主人公たちの人となりを紹介してから、「一歩の距離」に踏み込むことにしよう。
 塩月(16歳)、英(はなぶさ)(15歳か16歳)小手川(16歳)の三人は滋賀航空隊、班長は東二曹のグループ。 飛行機に憧れて志願したのに、「飛行機が一機もなくって、それで航空隊だってよ、航空の空ってのは、空っぽってことなんだ。」
 4人目の上尾は大津飛行隊で少数だが水上機がある。上官は宮島一飛曹(海軍の階級については後記資料参照)。

 (1) 上尾は横浜出身、父は早く死に、母親は和裁塾を営む傍ら、百貨店の呉服の仕立物をして二人の男の子を育てた。 彼はあまり勉強が好きでないところ「お前らのように頭が悪い奴は、予科練にでも行け」と校長に言われて、好きな飛行機に乗れる、早く下士官になれると言って、 母親を強引に説得して志願入隊する。
 四人は予科練第13期で天理基地に入隊した同期である。1期から12期まで(5年間)の甲種飛行予科練習生の入隊者数は5,462名に対し13期は28,510人と大量増募させている。

 (2) 一番若いと言うより幼いのが英(はなぶさ)、沼津出身小柄で痩せて白く幼い顔、首も細い、 身体検査の時に体重が足りないと言うので釣りに使う鉛玉をパンツに幾つも縫いこんでパスした。中学校では毎年級長を務めた秀才、寺の住職の一人息子、両親先生の反対を押し切って、 すぐに国のお役に立てる戦力になれる予科練を志願。壮行会では軍神(特攻死を意味する)になって帰って来ると挨拶している。そして志願について次のような歌を書いている。

名も要らず 位も要らず 只ひとつ 持たまほしきは 空の死場所

 美しき 山河霞む この空で 花と散りてぞ 生くる甲斐あれ

 この小説で城山三郎さん自身の投影のような少年である。

 (3) 小手川、おふくろの連れ児ということで、父親には先妻の子供がいる。大柄で猫背、卑屈さがにじみ出る、いじめの対象になり易い性格であった。 母にとっては生きてゆくための生命の灯であった。
 校長が「願書出さぬ生徒は、一人一人担任と一緒に校長室へ出頭だ、父兄も呼ぶ、出さぬ奴は非国民扱い、以後生徒と思わない」と強硬派。
 父が出頭するも「おふくろには一人息子だが、先妻の息子が居る。むしろ家庭をややこしくしているから、志願させた方がすっきりする」と説得に負けて、 強制的な志願で入隊している。分隊の中で直罰の最も多い一人であった。

 (4) 塩月、長野県木曽谷出身、目的志向性が強く自発的な生き方をしている。 「俺たちは死ぬにしても空で散る為にやって来た」「飛行機に乗りたい、下駄履き(旧式の水上機)でもいい、空さえ飛べればすべて天国に見えるはずであった」、 清潔好きで下着と靴下をこまめに洗濯。
 服装がきちんとしていなければ人間もしゃんとしない。柔道は初級であるが、汚い柔道着を着るのが嫌で、これが原因で大変なことになる。

 (5) 塩月、英、上尾らの属する第7分隊の班長の一人が東ニ曹(序列の一番低い下士官)、バッター(軍人精神注入棒)中毒にかかった鬼軍曹、 日露戦争においてバルチック艦隊を破った(1905年5月27日~28日)。その勝因は「我が東艦隊にはバッターがあり、バルチックにはバッターがなかった」と力説する。 「今度の太平洋戦争でもそうだ。ハワイ空襲の前夜、全員死んで来いと、搭乗員にバッターを喰らわせた。搭乗員たちは帰ってきたら又撲られる。いっそ突っ込む方がいいと言う気になった。 だからこそ、あの赫々の大戦果があがったんだ」
 東ニ曹はバッターを後手に持って歩き廻る。バッター無しではて手持無沙汰である。体の平衡が取れない。

 4.罰直のいろいろ

 今では体罰は大きな社会問題になるが、私自身の体験で、私が33歳から38歳の5年間会社の社長は、昭和3年生まれで少し軍隊の経験があったらしく、 色々な種類の直罰を知っていた。殴る蹴るの毎日で、地獄のような5年間を過ごしてきたので、体罰の恐ろしさと嫌悪感の由に戦争物語を避けてきたが、 真に戦争に反対する心を養うには事実を直観しなければならないと思うようになった。その5年間を思い出しながら、この東ニ曹が行った直罰のいくつかを記しておきたい。

 (1) 相互に殴り合いをさせる。全員を殴ると自分の手を痛めるので、向い合いニ列に整列させて、「拳を固めろ、良しと言うまで往復ビンタ-」東はバッターを抱え、眼を光らせた。 殴り方の手ぬるい練習生を、それで薙ぎ払おうという身構えである。「この野郎、手加減しやがって。」バッターがうなった。悲鳴とともに一人が倒れた。 「きさま、そんな殴られ方をしていいと思っていたのか。」今度は向き合っていた練習生をバッターが襲った。その男は低い呻き声をたてたがそれでも体は持ちこたえた。 塩月も小手川も英も向き合った練習生を殴り殴られた。

 (2) バッターで殺されることもあった。
 ある事件での東ニ曹(一種のバッター中毒になっている)の激しいバッターは、17歳の練習生を無惨な死に追いやる。 人がここまで残忍になれるのかと思われる事件である(事件の内容は本書を読んで理解を深めていただきたい)。
 「この野郎、よくもこんなことしやがって、覚悟はできているな。」東ニ曹は両手でバッターを握った。次の瞬間、バッターが風を切り、小手川はわぁという悲鳴とともに、 二回転して吹っ飛んで行った。三人の中で小手川は大柄で体格も良い。バッターには馴れているが、それは初めて見る猛烈かつ異様な凄さがあった。まだすっかり立ち切らぬ先に二撃が飛び、 小手川の体は宙に舞った。同時にバッターが折れた。
 「馬鹿、こんなことで許せるか、叩きのめしてやる。」「バッターの代わりを持ってこんか!」東ニ曹は怒鳴り返す。数人の練習生が教員室へ走って行った。 三本のバッターが届いた。教員室の教員達は東ニ曹がどこまでやるかと面白がって、わざと三本をよこしたに違いない。二曹は追い込まれ拍車がかかった本腰を入れて叩きのめすには、 取るべき姿勢を取らせねばならないと気付いた。バッターが喰い込まなければその力が逃げるということで、考え出されていたのが、棚の横木を両手で?み、りょうあしを開いて尻を突き出す。 練習生は逃げることも避けることもできない。打つ方としては狙いが決まり、連続して撲ることができる。一撃、二撃、三撃、小手川が崩折れた。 「尻を出せ。」と塩月も叫びたかった。痛くても尻で受けた方がいい、尻を引っ込めると、バッターが背筋に当たって危険である。幾つ打ったであろう。「オスタップ!」(水を気付け薬に浴びせること)。
 小柄な英が不意に前に出て「班長、勘弁してやってください。」これは火に油を注ぐだけのことであった。英もバッターで撲られ、練習生の列の中に倒れこんだ。 「何をしとる、早くぶっかけんか。」水の音に続いて、小手川の上にバッターが唸った。小手川の悲鳴とも呻きともつかぬ声が次第に弱々しくなる。 塩月はもうどこを見てよいのか分からなかった。これが帝国海軍なのだ。日露戦争以来伝統のあるバッターなのだ。そう思っても少しも救われなかった。教員全員が見物していた。 26発撲られた小手川は水に濡れ、ボロ屑の塊になったように転がってしまった。
 特攻を志願していた小手川に母親との面会が許されていたが、この事件が起き、母親に合わせることが出来なくなった。東ニ曹はじめ下士官たちは海軍の飯を無駄には食っていなかった。 名案を思いついたのである。どこからそうした知慧が出て来るのかと、塩月は舌を巻く思いがした。狡猾で功名な計画であった。衛兵当番と言うことで、面談はさせない。 ただし、当番中の姿を母親に遠くから見せ、安心させて帰そうという狙いである。そしてその狙い通りになった。母親は息子を灼けつくように眺めて、不承不承帰って行く。
 「いやぁ、よく世話を焼かせたぜ。さぁきさまたち、この荷物を転がすなり引きずるなりして片付けておけ。」と言ったのは、先任の教員であった。
 しばらくして小手川は息絶える。
 分隊長が東ニ曹を二発撲り飛ばして一件落着となる。
 すでに課業初めのかかった時刻、洗濯場には塩月ひとりであった。ごしごし洗いながら、手の甲で涙を拭う。拭いても拭いても涙は出てきた。 悲しかったし、こんな死に方があっていいのかと、無念でならない塩月は小手川の作業服を揉んだ。落ちてゆく小手川の汚れ。その汚れがもう二度と付くこともないと思うと、つい手が止まってしまう。

 (3) 上尾の居る大津航空隊には飛行機があった。だが大津空の練習生にとって、飛行機があるから地獄であった。予備学生が居るから地獄になった。
 飛行機不足、燃料不足から飛行機訓練計画は大幅に短縮されていた。かつて100時間かかったコースを30時間で仕上げる。ただでさえ厳しい訓練だが、 そのための殺気をはらんだものになった。空を飛ぶ楽しみどころか、操縦席に磔にされ、もがき続けるばかり。「もっとバンクを取れ。」背後から宮島一飛曹が怒る。 上尾がもう40度は取っていますと答えると、「馬鹿野郎」と同時に脳天に一撃来た。頭蓋にひびが走るかと思われるほど、痛かった。重い鋼鉄のパイプのようなものである。
 プロペラを回転させるためのエナーシャである。竹や棍棒では物足りず、エナーシャまで。 二度、三度、四度、五度と訓練中「やわらかい頭なったな、もう叩くところが無くなったぞ。」と言う迄、熱の入った訓練が行われる。 宮島一飛曹は予備学生(僅か二ヶ月余りで准士官より上、士官より下という身分になる。軍歴6-9年と言う教員たちの階級が下になる。 予備学生分隊の到着と同時に、宮島一飛曹には屈辱と同居する生活が始まる。そうした怨み、つらみがエナーシャにこもってくる)。
 上尾の受けた訓練は旧式飛行機の鍾りにならされるという命がけのものがあった。九死に一生を得て地上に戻ると、休息さえもなく、別課の体育があった。 片道千メートルの競争であった。海軍の飯を無駄に食ってこなかった下士官たちの知慧がひねり出した競争の仕組みが問題であった。分隊を二分して競争させる。 その中の負けた組は更に二分して、もう一度競争させられる。勝てば解散、遅かった半分は更に二分され、また競争、やり直しだからと言って、気の抜けた走り方は許されない。 いつも全速力で走るほかない。そして遅い限りは、何回でも走らされる。怒声もバッターの唸りもないが、最も過酷な罰直の一つであった。
 エナーシャでこずかれた頭が、走り出すと痛み出し、脳天に痛みが貫いた。上尾は絶望した。湖畔で水に飛び込むか、カッターにもぐりこもうと思った。
 ほとんど最後尾になったところで火薬庫の裏に廻って大きな柿木の根元に崩れた。競争と言う自動式の罰直をやらせているので、 体育の教員は一々練習生の数を数えているわけではないと思ってしばらく休んでいた。
 頭上で練習生の一人が叫んだ。「教員、居りました。」「よし、引っ張って来い。」最後の一人になる間で走らされた。眼はくらみ、地面が立ち上がって襲いかかってくる。 三度転倒した。罰直はそれで終わらなかった。別課が終わるころ、上尾は湖畔のパートへ連れて行かれ、そこで前支えをやらされた。 パートは勾配になった上にグリス藻、水土后などでぬるぬるしている。これも罰直としては、最高に考え抜かれたひとつである。滑っては倒れ、起き上がろうとしては、また倒れる。 倒れている限りは罰直を課したことにはならぬから、早く前支えにならねばならぬ。気負えば滑り、疲れても倒れる。蟻地獄の帝国海軍版であった。
 このように航空隊には、塩月たちの思いもつかぬ罰直や危険の数々があった。だが、塩月には恐さと言うより、やはり羨ましさを感じさせた(それほどに飛行機に乗りたかったのだ)。 十年一日のようにバッターで撲られているよりも、どれほどましか知れぬ。「殺されるようにしても飛行機で死ねば本望じゃかいか。」と思っていた。
 この塩月は後に、小手川の26発を上回る41発のバッターを受けることになる。

 5.一歩前へ

 (1) 時は19年秋「一歩の距離」が起きる。これまでの戦況と海軍練習生の過酷な日常生活を理解して事件に入ってゆく。
 「練習生分隊に告グ。第二課ノ課業ハ取リ止メ。直チニ格納庫ヘ集合セヨ。」練習生だけを集めるもので、東ニ曹のような下士官の姿は一つもない。
 秘密裡で行われたのか否かは明らかではない。塩月は「いよいよ来たなぁ。」飛練ではない飛練からの脱出、待ち望んでいた時であった。小手川も嬉しそうであった。 罰直生活から逃れられるという思いもあるのであろう。飛行機へ近づけることへの期待もあったのであろう。走る足が弾んだ。走りながら武者ぶるいがした。どの顔にも灯りがともっていた。

 「気ヲ付ケェ!」鋭い号令がかかった。教員や班長である下士官がいないことは嘗ってなかったこと、いったい何事が起きるのか。練習生は粛然とした。
 大佐の階級章を付けた航空隊司令である。小柄な老人。時ならぬ司令じきじきの訓示である。

 「諸君」司令はそこでまた、一息ついた。その呼びかけもまた異様である。

 「国家の苦難の真只中に飛び込んで来た諸君に、司令は先ず敬意を払う。諸君ら入隊以来の訓練も亦、能く司令の期待に応えるものであった。 すでにサイパンを失い、欧州でもパリは陥落、戦局は重大な局面に来ていることは、諸君承知のことである。・・・祖国存亡の秋、諸君は頽勢挽回のため決死の覚悟で海軍に志してくれた。 いまこそ、その諸君の志を活かす秋が到来した。」

 考えながら物を言う調子であった。ただの転属命令とは違うと、塩月は漠然と感じた。それでは何なのか。腋の下に冷たい汗が走った。

 司令は静かな口調で続けた。
 「戦局を一変させるべく、帝国海軍では、この度、必死必中の兵器を動員することになった。それに伴って、その兵器への搭乗員を諸君たち練習生の中から募るよう要請があった」
 格納庫の中は静まり返った。練習生も士官たちも、生きながら氷の像になったようであった。

 「司令は、大義に殉じようとする者の志願を待つが、これは全く諸君たちの自発的意志に任せることである。但し、長男と一人息子の者は除外する。」

 司令はそこでまた息をついた。ついで、眼を閉じる。小柄な体が台から落ちそうな気がした。
 塩月は大きく息をついた。胸の中がみるみる渇いて行く。そうか、これだったのか。だから教員は締め出されたのか。

 司令は姿勢を立て直し、穏やかに命令した。
 「全員、目を閉じよ。よく考えた上で、志願する者は一歩前へ出るように。」


 それが、どれくらいの時間であったか。おそらく二、三分のことだろうが、塩月には無限に永い時間にも思えた。
 必死必中の兵器とは何だ。特攻兵器、特殊潜航艇のようなものが、司令は航空機とは言わなかった。あんなに乗りたかった航空機でないことだけは、たしか。 そして、死ぬことも、たしかなのだ。それでも行くべきか、行かなくてはならぬのか。
 前に出る練習生の靴音が聞こえる。前で、左で、背後で、右で。二人、三人、五人・・・。靴音は脅迫的にひびく。だが、まだ全員ではない。
 出なければ、出なければ。死ぬために来たのに、何を躇っているのか。
 腋の下を冷たい汗が流れ続けた。手もぐっしょり汗を握った。
 両親や兄弟のことを思った。飛行機にも乗らずに死ねるものか。おれが行かなくても幾らでもその要員は集まる。逃げるんじゃない。おれは飽くまで空で死ぬんだ・・・。
 苦しかった。頭が燃えて来る。そっと薄目を開けた。その視野に、すぐ左から黒く大きく人影が出た。小手川であった。小手川が行くというのに。塩月の足がふるえた。

 「よし、待て。」老大佐は台上から消え、大尉が号令した。
 「そのまま動くな。全員、目は閉じておれ。」士官たちが、各分隊に散って来る。志願者の名前控えが始まる。
 決まったと思った。ほっとしたが、その安堵がたちまち悔いに染められて来る。ありもしない飛行機、その飛行機のせいにして、死を逃げたのではないか。 何故、身を投げなかった、一歩出なかったのか。いまから一歩出てはいけないのか-。
 塩月は、歯を噛み合わせ、眼を強くつむった。みんな、しっかり瞑目していてくれ。

 その日、昼過ぎまで、練習生分隊はひっそりしていた。練習生同士、胸の中を探り合うと言うより、夫々の決意を静かに反芻していた。 前に出るのも出ないのも、余りにも大きな決意であった。一歩の前と後の間には、眼もくらむばかりの底深い谷があった。
 遅かれ早かれ、いずれ死ぬ-という慰めに似た思いが、その谷を煙らせてくれる筈であったが、それにしても、傷口は生々し過ぎた。 此方の岸と、向うの岸。練習生たちはまだまだ茫然と断崖に立ち尽くし、眼の下の谷の深みに気を呑まれていた。

 (2) この後、谷を渡った者と渡らぬ者との間では、その課業がまるで別の意義を帯びているのに気付いた。塩月は一歩の距離を悔やんだ。一歩の距離を憎んだ。
 小手川は「こんな日だというのに、また東ニ曹にやられたよ。早くここから逃げ出したいね。このままじゃ撲り殺されかねないよ。」と言った。
 小手川は一歩渡った勇者であり、塩月は渡り切れなかった。
 特攻攻撃の始まりは、前回記したように、関行雄大尉が昭和19年10月25日に散華した。
 小手川は「特攻隊で死ねば、新聞にも出るだろう。おふくろの肩身は広くなる。もう、おやじはおふくろをいじめなくなる。軍神の母だからね。 義兄たちも、おふくろを見直して大切にしてくれると思うんだ。」その彼は、この直後に、東ニ曹に26発のバッターを浴びて撲り殺されることについては前述の通りである。

 (3) その日、英(はなぶさ)は真先に一歩を踏み出していた。一歩では足りず、五歩でも十歩でも前へ出て行きたい気持ちであった。 英(はなぶさ)は死に急がなくてはならぬと思った。一つ一つ歳を重ねる毎に、人間は不純になる純粋に君国のことだけ考えなくなる。 20歳過ぎの男(東ニ曹)が、もう信用できなくなっていた。彼は予科練を志願したときに、こんな歌を作っている。

名も要らず 位も要らず 只ひとつ 持たまほしきは 空の死場所

 美しき 山河霞む この空で 花と散りてぞ 生くる甲斐あれ

 どんな死に方も、桜の花の散る姿になる。大切なのは、散る時期である。老桜が散ったり、満開の花が散るのは、当たり前のこと。蕾のままで死ぬことにこそ、感動がある。 咲いて散るのではなく、散ってから咲くのである。死は早いほど良かった。「大義」を読み、深淵な影響を受けて志願した城山さんの一面が投影されているようである。
 長男は除外という司令の言葉が、一歩を揺り戻そうとしている。だから何としても、たしかな一歩にしておきたい。そこで、英(はなぶさ)は血書を書く。 書いた文字は「必死」、それから半月後(11月初め)、英(はなぶさ)を含む50余名が山口県大津島へ出発した。大津島は○六兵器の名で呼ばれる人間魚雷の訓練基地である。 水に潜り死に潜っていくだけの存在、それが飛行兵長、英義行の17歳の生涯になる。年明けて昭和20年初め、英(はなぶさ)はウルシー水域で〇六兵器によって敵艦隊に突入して果て、 殊勲上聞に達し、死して四段階特進の海軍少尉となった。

 (4) 東ニ曹も転属になり、滋賀航空隊には一歩の距離で苦しむ塩月が残っている。上官には予備学生上りの若い少尉がなり、言葉は丁寧だが罰直は相変わらず厳しく、 得意の柔道をさぼってしまったことが発覚し、41発のバッターを喰らうはめになる。小手川のように殺されてはたまるか、立派に耐え抜いてみせると歯を喰いしばって一命は取り留めた。

 6.予科練生の特攻隊(飛行)

 (1) 上尾(大津航空隊)の出撃は20年(1945年)4月に定まった。覚悟はしていたが、心外なのは、その出撃の機種であった。 いま乗っている九四式水上偵察機(敵艦隊や敵潜を遥かに発見するのが役目。空中戦も爆撃もその任ではない。下駄履きといわれる大きな浮き舟をつけ速度は遅く、動作は鈍い。 本の表紙に写真がある)に250kgの爆弾を積んで出撃するという。上尾は唖然とした。常識外れであり、気違い沙汰としか言いようがなかった。 階級は二等飛行兵曹に昇進、高等技術を示す八重桜もついた。生活は少しずつ変わり、たばこの「誉」が配給になるなど、特攻隊らしくなった。 上尾が出陣基地である四国の詫問へ向かったのは予定より遅く、昭和20年6月も半ば過ぎであった。特攻隊15名、司令から「神風」の鉢巻きを渡され、額に締めた。 恩賜の酒が出て、教員たちと別れの盃を交わす前夜、遺書を書き置いて行くように申し渡された。
 十日ほどして、15機の水偵が舞い戻った。もうどこを見ても戦える状況ではなかった。 B29は名古屋、大阪、神戸、尼崎と襲って、高々度を白い飛行機雲を曳いて逃げるように飛んできて、更に大編隊を組んで夜昼の別なく本土を縦断する。

 7.敗戦後に起きたこと

 その数ヶ月後の四月に塩月には二度目の特攻志願が求められ、「目を閉じよ」までは同じであったが、「志願者は手を挙げよ」と言われた。 一寸がっかりした。この一歩を大きく踏み出してみたかったのだ。足踏み鳴らして出でるところだったのに。今更のようにあの時が悔やまれた。 しかし塩月には、しっかりとした死生観があり死に急がない、死は大義のために、生命を無駄にしてはならぬという軍人魂は身についていた。 戦争には負けるとは思わない。しかし日本は滅びるかも知れぬと思った。そしてその時がついにやってくる。
 終戦の詔勅を聞いて三日ほど経ち、悲しみと憤りばかりだった隊内に少し別の空気が漂い始めていた。 「特攻隊は逃げろ」「予科練は全員銃殺」などという指令とも噂ともつかぬものが流れていた。滋賀空(塩月)も大津空(上尾)もなかった。 叡山に籠ろうとの声が起り、武器弾薬から食糧や毛布を背負い、山へ登った。少年たちから成る純粋な戦闘集団が出来上がった。上尾と塩月はそこで再会した。
 山に入って四日目、一時は百人を超した人数が80人を割り、もう里へ下るのも止め、全員が陣地に籠った。銀飯を炊き、鮭缶で昼食をしていると、峠の道に人影が見えた。 何人かが銃に飛びついた。人影は二つ。ハンケチを大きくしたような白旗を振って上がって来る。帽子の線から一人は士官、一人は下士官、蝉時雨の中で先に立つ下士官が叫んだ。
 「おーい、撃つな、おれだ。野沢二層だよ」塩月を41発バッターで撲った男である。塩月は九九式銃を構えると、空に向けていきなり撃鉄を引いた。 銃声は全山に木魂して轟いた。士官も野沢も、土煙を上げて引っくり返った。しばらくは頭も出さない。久し振りに陣地には笑いが起きた。
 塩月は、まだ硝煙の出ている銃を捨てると、陣地の上に上がって叫んだ。
 「班長、大丈夫ですよ。」
 「本当か、頼むぞ、頼む。撃たんでくれ。」こわごわ野沢。ついで士官の頭が出た。
 「頼む、撃つなよ、本当に撃つなよ。」醜いほど繰り返す。無理もなかった。撃つのを止める権利も資格も彼らにはない。全部が全部信用できなくなっていた。 士官は教育隊付の中尉であった。陣地に入ってからも、野沢も背に隠れるように立っている。野沢の即刻帰隊を勧めたが受け入れられず。
 「それでは、ここに籠城の間も、人を絶対に殺してはならぬ、お前たちも死ぬな、これが司令の命令である。」 塩月は「殺すな、死ぬなですか」「この間までは殺せ死ねじゃなかったですか」「どっちが正しいんですか」野沢は一寸首をかしげたがすぐ「両方とも正しいんだ」と答えた。
 「死ねも正しい。死ぬなも正しい。」「じゃ、どうすればいいんです。」
 戦争が終わったから「戦うな、死ぬな。」というのは当たり前。ましてや陛下の御命令とあらば-というわけだ。彼(野沢)にとっては明快極まることなのだが、 塩月たちには、そもそも死ぬのでも勝つのでもなく戦争が終わるということが解し難いことなのだ。それを受け容れかねている。そのところを素通りして、終わったから命令だと言われても応えられない。 日本には勝利か滅亡しかなかったはずではないか。そのように教え込まれてきた。

 今更、そのどちらでないと言われても、ついて行けない。負けて生き延びるということは、絶対許されぬはず、何故滅んではいけないのか。死んだ奴はどうなる。 小手川も死んだ、英も死んだ、みんな、みんな、みんな、みんな、みんな死んだ。おれだって死のうとして、まだ死に遅れたことで、あんなに苦しんだ。あの一歩の距離は、どうしてくれる。 今度こそは、一歩が千歩万歩に開く、あの一歩はいままでもおれを苦しめたが、これからは、もっとずっとおれを苦しめそうな気がするのに。 これから後、生きるとはどういうことなのか、まるで見当がつかない。醜さや空しさだけの人生のような気がする。

 8.戦争の結末

 戦争の結末は人の心をこのように混乱に貶める。勝ったとしても、戦場で多くの人を殺してきた傷は癒されることはない。前線の兵士達は全てが生きても死んでも犠牲者である。 ベトナム帰還の米兵も多くが心の病に侵された。原爆を日本に落とすことを命じた人も称えられることはなかった。自罪の意識に苛まれ自ら命を落とした人もいる。 どんな時も戦争は人を苦痛と苦悩に追いやるだけである。なのになぜ人は戦争をするのか。この世からなぜ戦争がなくならないのか。 日本が北朝鮮に脅威を感じて核武装しようとする動きがあるが、これは民意を納得しやすい論理である。マスメディアによって、この民意は大きくすることが出来る。 日本が核を持つことは世界に測り知れない脅威を創造するし又、狙い易くもなると私は考える。非核三原則の遵守が平和の最後の砦である。
 五木寛之氏は「戦争はなぜおこるのか」この五回シリーズで、戦争を起こすのは、政治家と大商人である。これは古代から現代まで、ずっとそうだ。 しかし、いくら政治家や大商人が戦争を起こそうと企んでも、民意がそっぽを向いてしまうと、戦争は出来ない。と言っておられる。またこの民意を培うのがメディアであるとも強調される。 戦争をする準備をするのではなく、戦争をしない、させない準備をすることができるのが日本であることを忘れてはならない。
 戦争に反対する人は、戦争の悲惨さ、残忍さ、惨たらしさを知識として知っておく必要がある。
 城山三郎さんは、そんなことを思って、多くの戦争小説を残されたのではないだろうか。
 冷夏も終わろうとしている。「大義」と「大義の末」は来年八月にしたいと思う。

 


 長崎平和宣言の宣言文

 今、私たち人間の前には二つの道があります。
 一つは、「核兵器のない世界」への道であり、もう一つは、64年前の広島と長崎の破壊を繰り返す滅亡の道です。
 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。 ロシアと戦略兵器削減条約(START)の交渉を再開し、空も、海も、地下も、宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准を進め、 核兵器に必要な高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。 「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある」という強い決意に、被爆地でも感動が広がりました。
 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。
 しかし、翌5月には、国連安全保障理事会の決議に違反して、北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。 世界が核抑止力に頼り、核兵器が存在する限り、こうした危険な国家やテロリストが現れる可能性はなくなりません。 北朝鮮の核兵器を国際社会は断固として廃棄させるとともに、核保有5カ国は、自らの核兵器の削減も進めるべきです。 アメリカとロシアはもちろん、イギリス、フランス、中国も、核不拡散条約(NPT)の核軍縮の責務を誠実に果たすべきです。
 さらに徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求めます。 インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのです。
 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければなりません。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、 非核三原則を揺るぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきです。
 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、 ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アハマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼び掛けます。

被爆地・長崎へ来てください。

 原爆資料館を訪れ、今も多くの遺骨が埋もれている被爆の跡地に立ってみてください。1945年8月9日11時2分の長崎。 強力な放射線と、数千度もの熱線と、猛烈な爆風で破壊され、すさまじい炎に焼き尽くされた廃虚の静寂。7万4千人の死者の沈黙の叫び。 7万5千人もの負傷者のうめき。犠牲者の無念の思いに、誰もが心震えるでしょう。
 かろうじて生き残った被爆者にも、皆さんは出会うはずです。高齢となった今も、放射線の後障害に苦しみながら、自らの経験を語り伝えようとする彼らの声を聞くでしょう。 被爆の経験は共有できなくても、核兵器廃絶を目指す意識は共有できると信じて活動する若い世代の熱意にも心動かされることでしょう。
 今、長崎では「平和市長会議」を開催しています。来年2月には国内外のNGOが集まり、「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」も開催します。 来年の核不拡散条約再検討会議に向けて、市民とNGOと都市が結束を強めていこうとしています。
 長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たち一人一人です。 指導者や政府だけに任せておいてはいけません。
 世界の皆さん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。
 原子爆弾が投下されて64年の歳月が流れました。被爆者は高齢化しています。被爆者救済の立場から、実態に即した援護を急ぐように、あらためて日本政府に要望します。
 原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、核兵器廃絶のための努力を誓い、ここに宣言します。

平成21年(2009年)8月9日
  長崎市長 田上 富久

 


 <軍隊の階級>

軍隊の階級

 参考:『軍隊における階級呼称一覧』 (Wikipedia)