2009年8月号 第270号
私たちの8月15日
八月になると、城山三郎さんを思い出す。氏が召天されて2年6ヶ月、この異常気象の夏に「官僚たちの夏」がテレビで放映されて人気を呼んでいる。
経済小説の分野を確立したこと以上に氏の存在感は歴史的な重さをもって残っている。それは氏の戦争体験からくるリアリティと力強い歴史観から来ており城山ファンが増えている。
五木寛之氏は、連載「流されゆく日々」の中で「八月は戦争と死の記憶」と題してエッセイを書いておられる。折しもNHKが8月8日から三夜連続で日本海軍について驚くべき証言を報道した(詳細は次号以降)。
私は開戦の年、昭和16年8月の生まれであるので両氏とは約10年の開きがある。その開きは隔絶の感のあるもので、戦争を体験的に語ることはできない。
正直言ってその悲惨さに目を向けることができず語ることを避けてきた。いつか読もうと買ってあった城山作品を読み出し、自分の八月を考える年になった。
氏の作品は事実をよく調べておられ覆い隠されていた所が明るみに出て真実が心に染み込むので紹介をしてみたい。
今更という方もおられるが、何せ私は全てにおいて遅手であるのでお許し願いたい。
まず「指揮官たちの特攻」からはじめ、次に「一歩の距離」「大義の末」と進めていきたい。
1.指揮官たちの特攻 (平成13年8月 初版刊行)
(1) この小説は城山氏がホノルルからオアフ島の東岸沿いにあるカフク岬を訪れたところから始まっている。
その地は昭和16年12月8日未明、日本海軍の戦闘機、雷撃機、爆撃機から成る200機近い大編隊が、初めてアメリカの領土に姿を見せた地点である。
このカフク岬には米軍の太平洋艦隊向けの大規模な通信基地であり、日本側の電波は筒抜けで傍受され、暗号も殆ど解読されており、
すでに開戦前に情報戦争の勝負はついていたという謂れのある所である。
氏をその地に運んだ運転手の話では、10年ほど前(1990年代後半と推定)ハワイの新聞でアメリカの策略で、日本は罠にはめられるように真珠湾攻撃に誘い込まれたという記事を読んだという。
日本機が攻め込んだ真珠湾には、肝心のアメリカ空母は全て出払っていて、ただ図体の大きな戦艦ばかりが係留されたまま、格好の目標という形で並んでいた。
日本海軍が目標にしていた空母はなかったのである。経済力では桁外れに大きなアメリカが、情報網を含め、準備万端整え待ち受けているところへ、
日本側は殆ど素手も同然で飛び込んで行ったと見ることもできる。
連合艦隊司令官長、山本五十六は開戦三ヶ月前、首相近衛文麿から、日米が戦いとなった場合の海軍としての見通しを訊かれたとき、
「やれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧に入れます。しかし、その先のことは全く保証できません。」と答えている。
真珠湾への第一弾を投下したのは、高橋赫一少佐(当時35歳)であった。
奇襲としては失敗したことが詳しく書かれている(高橋少佐の優しさと気骨ある生き方が詳しく記されているp.11~27)。
(2) 少し小説から離れるが、真珠湾攻撃は空母攻撃だけでなく、小型の特殊潜航艇「甲標的」による攻撃も行われた。 乗員は2名で、艦首に魚雷を二本搭載、バッテリーのみの動力で動く、充電設備のないものであった。 5隻10名が突入、全て目的を果たすことはなく、一隻はコンパスの故障で方向性を見失って座礁して自爆、二人は海に飛び込み岸まで泳いだ、 稲垣清二曹は自決、酒巻少尉はアメリカ軍の捕虜となる。この発表は三ヶ月遅れた昭和17年3月に大本営発表となっている。 3月7日の新聞には「友軍飛行機隊と呼応し多大の戦果を挙げ・・・全軍の士気を顕揚したるは其の武勲抜群なりと認め・・・永久にたたえる為に『特別攻撃隊』と命名し、 9人を軍神とした記事が大々的に報道されている。軍神とは軍功をたて戦死し、神格化された軍人だがその思想は天照大神にまで遡ることができる。 『特攻』という言葉が固有名詞となったのがこの時である。東条英機の次の言葉がその精神となった『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ』」
(3) 小説の主題へ戻る。主人公は最初の特攻隊となる関行男と最後の特攻となる中津留達雄の二人である。まずこの二人に共通する不思議について整理しておこう。
二人はハワイ攻撃直前の昭和16年11月5日海軍兵学校第70期生(432名)であり、卒業後の進路も飛行科を志望、ここで偵察と操縦とに分かれるが、二人とも操縦へ、
更に3つの専修別、すなわち艦上爆撃機か艦上攻撃機又は偵察機だが二人とも艦上爆撃機を選び、実戦用の飛行機を使っての最終訓練を受ける、わずか5人に絞られた艦爆仲間となる。
二人とも筋肉質で長身、顔かたちも整っている「もてる」タイプの青年士官、テニスが好きということも共通していた。
(4) 関行男は大正10年(1921年)8月愛媛県西条市に生まれる。生い立ちは苦汁に満ちているが、20歳で少尉に任官、昭和19年春22歳の時に幸せな結婚をする。
学生たちがうらやましがるほどの夫婦仲の幸せな姿を見せびらかしていた。それが束の間のもの、花びらのように間もなく散るであろうことを、すでに感じ取っていたかのように、
幸せに酔って見せる姿でもあった(妻の名は満里子)。
昭和19年9月、台南の練習航空隊へ教官として赴任するように命令される。3週間後にはフィリピンルソン島中部のマバラカット基地に出ることになった。
関が取り組んできた艦上爆撃機ではなく零戦部隊、勝手が違い敵機が来襲しても迎撃に飛び上がることも出来ず、壕に入ったり、空しい思いで空を見上げているばかりの不満な生活が続いていた。
昭和19年10月といえば、日本の戦況は著しく悪く、圧倒的に優勢なアメリカ艦隊に対してはもはや一機心中で行くしかない状況であった。
関が受けた命令は250キロ爆弾を装着した零戦に編成を指揮し、レイテ方面のアメリカ機動隊めがけて、初めての体当たり攻撃の決行をせよというものであった。
それまで特攻は予科練習生の下士官・兵の中で親一人子一人の者、長男、妻子ある者を除いて志願するものがその任にあたっていた。
関は親一人子一人であり妻がいたにもかかわらず命令されたのである。
関のような士官(当時少尉)が特攻になるのは格別のことだからということで、幕僚の間で神風隊という名前が付与された(その後、敷島隊、大和隊、山桜隊などの隊名が告げられる)。
すでにこの時点では部下となる者は予科練出身者など下士官たちを集合させ、体当たりへの応募者を募っていた。
(5) 昭和19年10月20日朝出撃待ちの特攻隊員たちへの大西中尉の訓示は次のようなものであった。
「日本はまさに危機である。しかも、この危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍司令部総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。 それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は一億国民に代わって、みなにお願いする、どうか成功を祈る」
命令するというより、頼む、お願いするという形で話しはじめ、
「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。 しかしみなはながい眠りにつくのであるから、残念ながら知ることのできないし、知らせることのできない。だが、自分はこれを見とどけて、かならず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」
と結び、もう一度、「しっかり頼む」と繰り返した。
海軍におけるこのような責任転嫁の図式は、東条英機において最も典型的であったことが判るのは戦後の東条裁判を通じてである。
(6) 昭和19年10月21日出撃するも、天候不良であったり、敵艦隊が見つからなかったりして戻ってくること3回、その度に指揮官の関は「申し訳ありません」と頭を下げた。
10月25日、関の指揮する五機は今度こそ戻らぬ出撃をし、神風特攻隊第一号の栄誉を荷う。関は23歳であった。本音とも言うべき関の最後の言葉、
「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(家内)のために行くんだ。命令とあれば止む得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。 最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう。」と言い、さらに「ぼくは短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし、列機の若い搭乗員は・・・。」
若い搭乗員は、この時には16歳~17歳にまで広がっていた(詳細は次号「一歩の距離」で記します)。
関の不運はこれで終わっていない。残された軍神の母へと引継がれる。母サカエは「天地がひっくり返る」思いを二度も体験する。
戦後は周囲からの不本意な嫌がらせを受けるなど気の毒さを表現する言葉もない(p.60~65)。
(7) 関戦死の二日後、昭和19年10月27日第二次神風特攻隊がレイテ湾、ルソン島東方沖などに散華、この流れは11月へと続き第三次第四次神風特攻へ1ヶ月間で、 爆撃機の全て、旧型、新型、艦上、陸上を問わず投入しようとする雲行きがあった。 各地の練習航空隊では、次々に卒業繰上げが行われ、まだ未熟な生徒までが攻撃部隊に編入され、 国内外の第一線基地へと移動させられていった(海軍予備学生や予科練習生までが強制志願させれていく様子については次号「一歩の距離」で記します)。
(8) 年が明け昭和20年に入るとフィリピンの基地からの特攻出撃が続いたのに加え、台湾東方に現れた米機動部隊に対しても台中、台南からの零戦や彗星による特攻が行われた。 こうした中、2月11日の紀元節、宇佐では全隊員を集め、司令直井俊夫大佐の訓示が行われた。
「いまや戦争に勝つということは考えられなくなった。軍人として名誉ある対処を静かに考えるべき時期が来た。」
この20日前に、宇佐にはそれを肌で感じさせる深夜の客(事件)があった。夜空に轟音を連ねて大型機が次々と着陸、朝になってみると、
巨大な葉巻のような一式陸上攻撃機が飛行場にいっぱい並んでいた。
人間爆弾といわれる「桜花」を吊るして行くための飛行機であった。桜花とは尾びれのようなものがついた大きな砲弾で、
その中に若い青年を閉じ込めロケット弾として撃ち出される生還の可能性は全くない。
人間棺桶と言われていた。プロペラのない飛行機、自分では飛び上がれず落っことされるだけの飛行機、搭乗員は精密な装置代わりとなる。
発進する際には、まず母機に吊るしてある金具が炸裂し、「桜花」はいわば発射された形で飛び出し「真っ逆さまの感じ」で落ち、時速648.2キロの猛スピードに達する。
そのあと操縦桿を引き起こして速度を落とし、胴体下部に臨時につけたソリを使って着地しなければならない。
宇佐に桜花が格納されたのは昭和20年2月に入ってからであるが、これを察知していたかのように米軍は3月18日宇佐(他に鹿屋も)を撃い、
B29の投下するノトン爆弾は、一町四方の家を吹き飛ばした。
一式陸上攻撃機が次々と炎上し破壊された。
2日後3月20日、報復のため野中五郎少佐率いる第一神雷特攻隊の出撃が決まる。
鹿屋から、桜花15機を積む一式陸攻18機、目標は九州南東洋上のアメリカ機動部隊、桜花は特攻の為だけに開発された新兵器による攻撃ということで上級士官である少佐を選んだ。
しかし総計150名中海兵出身はわずか7名、残りの143名が予備学生や予科練習生出身で占められていた(彼らがスペアと呼ばれていたことは「一歩の距離」で記す)。
3月21日、勝ち目の全くない戦い。見方からも見放された野中五郎少佐の一隊は、蜂の大群のように待ち構えていた米戦闘機集団の絶好の獲物となって果てた。
空しく、一挙にして。150名の命が散った。少佐が残した本音とも言える遺言は「どうか特攻をやめさせてくれ」であった。
(9) 同日の宇佐では、練習航空隊が廃止となった。教官や教員が不要になり、特攻要員になることを意味する。出撃は4月上旬、志願ではなく指名であった。
この頃になると日本の防衛線は崩壊の一途を辿り、3月17日には硫黄島が玉砕、4月1日には沖縄本土へと上陸を許している。
特攻の目標は沖縄周辺に展開したアメリカ機動部隊に向けられていった。
そんななかでの教官教員の特攻編成である。殆どが20代前半、覚悟はしていたものの一瞬青ざめた顔になるのも当然である。
こんな中、中津留大尉は701航空隊に編成された国分へ移り、通常爆撃の「彗星」に乗るように命じられた。
彗星は最新鋭機で最高時速580キロ、500キロの爆弾を積むことができる。本土決戦に備えて温存されていたようである。
昭和20年4月はじめ宇佐航空隊の保有機数は157機、その中から山下大尉らを第一次隊とする「八幡護皇隊」が出撃(4月6日)して、更に第二次、
第三次などが続き、5月11日まで九波にわたる特攻によって154名が還らぬ人となった。
4月21日朝、宇佐はB29の大編隊による空襲にさらされた。特攻基地叩きだ。狙いは航空機や格納庫、兵舎だけでなく、女子挺身隊員たちや一般民家も巻き添えにした。
螺旋爆弾といわれるものが使用され、それは小型で地上に触れるか触れないかで炸裂し、全く水平に螺旋の破片が飛び散るもので、
炸裂したあとと言えば一鍬ほどの土を掘り起こしているだけで20メートル四方の芝生が引裂かれている。人間殺傷だけを狙った爆弾であった。
宇佐でのこの日の死者は320名。死臭こもる壕の先、駅舘川の堤では遺体を焼く炎と煙が夜どうし立ち昇った。
(10) 城山三郎さんは厳しく自己を述懐される部分がこの後に続く(p.138~)。氏ご自身も特攻になる可能性があったのである。こここそが氏の原点であり、私には語れないところである。
幸か不幸か、私たちは知らなかったが、そのころ海軍航空隊は壊滅に近い状態に在った。
それなのに、昭和20年5月に新規かつ大量に採用された私(城山)たち特効幹部練習生徒は何か。次々に開発され生産されている特攻の為の特殊兵器の要員確保である。
すでに人間爆弾「桜花」は出撃していたが、更に改良されたものが後を継ぎ、特攻目的で大型爆弾を搭載するジェット攻撃機「橘花」もつくられていたし、
木製で松根油を燃料とする「梅花」の試作にも入っていた。そして、それ以上に量産され、大量の要員すなわち人命を必要としたのが、水上・水中特攻兵器である。
人間魚雷「回天」に加えて、モーターボートに爆装した「震洋」もすでに出撃しており、特殊潜航艇の流れをくみ、
更に大型化した乗員5名(真珠湾攻撃では2人乗りであった)の「蚊龍」、更に頭部に600キロの爆弾を詰め、水中翼を持つ二人乗り潜水艦「海龍」もまた20年4月には量産に入っていた。
まさに特攻兵器のオンパレード。そして城山さんら15540名の少年兵が乗ることになっていたらしいのが「伏龍」である。
それは米軍の日本本土上陸作戦に備えたもので、海岸に接近してくる米艦船を狙うことを目的とし、機雷を棒の先につけて持ち、潜水服を着て、海底に縦横50メートル間隔で配置される。
敵艦船が来たら、その棒を敵艦の艦底に突き上げて爆発させる。もちろん当人も周辺に配置された人たちの命も一挙に吹き飛ぶ「桜花」以来の人間爆弾、人間魚雷などの最終篇である。
少年兵の命など、花びらよりも紙切れよりも安しとする日本海軍ならではの発想である。
脚に大きな浮舟をつけた水上機もまた特攻出撃させられている。出撃前に電信機や機銃を「もったいないから」と言って取り外してしまっていた。
まるで戦果報告など期待していないと言わんばかり。それは4月29日から7月3日まで11回、80名の命が捧げられた。その中に職業軍人である海軍兵学校出身者は-名もいない。
城山さんと同じ17歳の少年兵が8名、16歳の少年が3名もいた。彼らに何ができたであろうか。水上機の操縦ができるわけがない。
後席へ偵察員として乗った少年兵の役割は、目を見張って敵機や敵艦を探すということであった。
日本陸海軍の上層部には負けるという辞書はなかった。勝つか「一億玉砕」かであった。その思想の表れが、最後の最後まで特攻をかけ、
米英から譲歩を引き出すべきだとの声も強く、このため元首相広田弘毅と駐日ソ連大使マリクとの間で密かに進められていた交渉も潰され、終戦工作が遅れに遅れ、
広島・長崎などさらに膨大な犠牲を出すことになった。
(11) 国分基地にいた中津留大尉に再び派遣命令が出され「彗星隊を率い、美保基地(米子近く)へ移れ」というものである。
美保基地とは松林の中に部厚いコンクリート造りの大格納庫やヨーロッパ風のシックな洋館の司令部などが点在し、大小いくつもの掩体壕もできていて、
堂々たる面構えの基地である。本土決戦を控えた航空機集団にとって最後で最強の根拠地であった。
そこには、高性能の「彗星」はもちろん、艦上攻撃機の「天山」さらに大型の「一式陸攻」それに「銀河」もいたし「震戦」はもちろん、米戦闘機に劣らぬ性能といわれた「紫電改」などもいたし、
時速600キロを超す超高速の艦上偵察機「彩運」も居るなど、新旧、大小各様の海軍機が集まっていて、まるで生きている航空博物館の観さえあった。
一方では16~17歳の少年兵まで死の命令に等しい特攻に出しておいて、他方では米軍の本土上陸に備えてという名で贅を尽くした豊富な資源を隠し持ち、
幹部になればなるほど保身に走る海軍組織文化が一貫して認められることができる。
軍艦が沈む時、総員を退去させ、艦長は身を艦橋に縛りつけ、艦と運命を共にするのが帝国海軍の伝統のはずであった。米英の軍艦でも、その例は珍しくなかった。
ところがその点で凡人が首を傾げたくなるのが、大西瀧治郎、宇垣纒という二人の航空艦隊司令官の「陣地変更」という名の脱出である。
大西の話は余りにも有名であるので割愛するが、中津留達雄を理不尽極まりない死に至らしめた宇垣纒の陣地変更は帝国海軍の組織がもはや壊滅状態であることを示している。
宇佐(大分県)をも傘下に置く第五航空艦隊司令長官の宇垣は、司令部所在の基地に攻撃部隊が不在なのはおかしいとして、
宇垣は美保基地(中津留がいる)から彗星一ヶ中隊を大分へ派遣するように命令した。その司令官になったのが中津留達雄であった。
19機の部下と共に彗星隊は美保から大分に移動するのであるが、無事に着くことが至上命令であった。すでにこの移動すら容易ではなかったのである。
このため、米機の来襲コースである豊後水道は避け、西よりに機首を向けた。ようやく大分が近くなり、高度を下げ始めたところで、今度は日本陸軍陣地から高射砲で撃ちかけられた。
敵機か友軍機なのかの見境もつけられないほどに組織が疲弊しているのが読み取れる。そこまで軍の質は落ち、脅えだけが深まっていた。
宇垣の手元には、日々刻々かなり正確な戦況や情報が届いていた。国内での発表や情報については、かなりの割引や修正が必要だが、
そのため海外からのニュースが参考になった。宇垣はサンフランシスコ放送を傍受し、ポツダム宣言がらみの和平交渉が進められていること、
それに広島に落とされた原子爆弾一発がB29の搭載する爆弾の実に2万発分の威力があること等々を知っていた。
(12) 20年8月9日 ソ連参戦
8月10日、深夜の御前会議で天皇自身が「速やかに戦争の終結を」と強く主張され、これによってポツダム宣言の正式受諾が決まった。
これらのことが大分基地の中津留隊に伝わることはなかった。
20年8月11日、喜界島から神雷爆戦隊五機が出撃突入して果てた死を知らされた(突入電を打ってきた)。
20年8月13日、同様な神雷爆戦隊が発信しようとし、すでにプロペラが廻っているところで「出撃中止命令」。
20年8月14日、夜明け前に沖縄へ向けて出撃というところで、機に乗り込んで待機していると、このときもまた中止。
情報というか指揮系統が混乱し、特攻隊員たちは覚悟しては引き戻されるの繰返し。組織の末期に顕著に見られる症状を呈している。
朝には「敵撃滅命令」が出るものの、夜には「対ソ及び沖縄攻撃積極攻撃中止」の命令が大分の司令部に伝えられる。
しかし宇垣はそれを承知の上で、まるで反発するかのように翌日の為の出撃命令書を書かせている。もちろんこれらの動きについて中津留は一切知らされていない。
8月15日正午には天皇のお言葉の放送がある旨、ラジオは朝から予告を繰り返していた。
サンフランシスコ放送は、日本がポツダム宣言を正式に承諾し、戦争が終わった旨報じており、それらは刻々、宇垣纒に伝えられていた。
(13) それでいて、宇垣は中津留大尉を呼びつけた。「七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。
本職これを親卒す」というのが参謀に書かせた命令書、中津留はそれを口答で聞いた。情報を絶たれていた中津留は、おかしな表現だが、普通の特攻だと受取った。
かねて覚悟してきた通り、ここまで温存されてきた彗星の出番が、今いよいよ来たのだ、と。
事態を疑うより、覚悟が決まっているので、思考が固着化している様子が窺える。そのことを知っているリーダーは部下を操作しやすい、ここに洗脳教育の意味があるようである。
中津留自身も宇垣の「親卒」(宇垣も特攻して死ぬ)の理由は聞かされていない。
攻撃目標は最初は「沖縄水域」であったのに、「東シナ海を北上中の米艦船」に変わり、更に「待機」と変わる。その時隊員の一人が「戦争は終わったようだ」と伝えた。
午後4時近く、沖縄水域への出撃と決まり、隊員たちは指揮所前に整列、そこに宇垣が参加。「みんな俺と一緒に行ってくれるのか。」と言うと隊員たちはいっせいに声を上げ、
右手を突き出して「行きます。」と答えた。
宇垣はこれに応え、短刀を持った右手で宙を突く。その短刀は山本五十六元師からもらったもの。「私はこの特攻が成功しようが成功しまいが機上で腹を切って死ぬ。」
と言って短刀を見せた。
(14) 中津留の操縦する一番機に宇垣を乗せるためには、後部の席を空けなければならないのだが、遠藤秋章飛曹長が降りるのを拒み、
結局、宇垣が偵察員席に股を広げる形で座り、その前に遠藤が膝をつくという窮屈な姿での出発となった。
時は8月15日夕方に近かった。
その夜、米軍キャンプでは戦争が終わった、もう爆弾は関係ないと、明々と電灯をつけ、勝利を祝うビアパーティーが開かれていた。
にぎやかな音楽や騒ぎ声が、山一つ隔てた島民の隔離地まで聞こえていた。そして突然、爆音が迫ったかと思うと、米軍キャンプの方向から大爆発音がし、大きな炎の柱が立ち上がった。
何事かと思っていると、さらに近くでもう一度、大爆発音、炎の柱。
夜空を明るくしていた米軍キャンプの灯りが消え、慌しく人や車の動く気配。だが島民には何が起こったのかわからぬまま、夏の夜は明けた。
二機とも米軍キャンプ目がけて、真っ直ぐ進入しながら、その直前で一機は岩礁へ、一機は直進はしたが、米軍キャンプをかすめて、その先の水田へ。
両機とも爆弾は海中に投棄して来たと思われる。
大分からの機中、宇垣と中津留の間にどんな会話があったかは分からないが、大分から飛んで現地までに敵機も敵艦船の姿も全くないことから、
中津留は疑問を感じ、「積極的攻撃中止」命令の意味を解して、キャンプ突入を中止した。進路変更し岩礁へ、他機もすばやく察知して水田へと突入した。
(15) 断交の通告無視に真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したとなると、騙まし討ちに始まり、騙まし討ちに終わる日本は世界の非難を浴び、
軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかもしれない。中津留とその列機が、とっさの間に定められた攻撃目標を捨て、
目標でない目標、岩礁や水田と言う番外の目標に突っ込んだことで、日本は平和への軟着陸ができたと言えるのではなかろうか。
中津留達雄大尉は思慮深く、温和な性格で職務に忠実、技量は優れ、家族思いで幸せな結婚をし、20年8月女児に恵まれたばかりである。
親子の対面は唯の一度、乗るはずもない最後の特攻、それも国際法にもとる違反を犯しそうな命令に従いつつも、危機一髪の最後のところで、持ち前の賢明さを取り戻し、
愚かな帝国海軍を救った。
(16) この著は、戦争の残酷さを坦々と説いている。戦争の馬鹿らしさを訴えている。戦場と言う場において、
組織による統制は人間の自己中心性によってもろくも破壊されていく模様も明らかにしている。多くの登場人物の心理描写がヴィヴィッドに描かれている。
人間の暖かさ冷たさがリアルに伝わってくる。そして組織の限界とそれを超える方法も言外に読み取れる。
純粋な少年が昭和20年8月に大義を信じて志願した海軍での実体験から、城山三郎さんが最も言いたかったことは何か。各々が考えるにふさわしいリーディングガイドになる著である。
この原稿ははじめに記したように、城山三郎さんの「指揮官たちの特攻」(幸福は花びらのごとく)新潮文庫からの引用で構成してある。ところどころに私見的な解説も入っている。 どうか参考になったら、本著に直接触れて欲しい。累々と迫ってくるものが一夜の読破を可能にするであろう。
次回は城山さんの「一歩の距離」(予科練物語)を同様の手法で紹介する。氏が生涯かけて訴えたかったものが何であるかを求めて。 更に城山少年を海軍へ志願させたという大義を「大義の末」から読み問いてゆきたい。
<広島原爆の日> こども代表 平和への誓い(全文)
人は、たくさんの困難を乗り越えてこの世の中に生まれてきます。
お母さんが赤ちゃんを生もうとがんばり、赤ちゃんも生まれようとがんばる。
新しい命が生まれ、未来につながっていきます。それは「命の奇跡」です。
しかし、命は一度失われると戻ってきません。戦争は、原子爆弾は、尊い命を一瞬のうちに奪い、命のつながりをたち切ってしまうのです。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
それは人類が初めて戦争による被爆者をつくりだした時間であり、世界が核兵器について真剣に考え始めなければならなくなった時間です。
あの日、原子爆弾は、広島の街を一瞬にして飲み込みました。
建物は破壊され、多くの人々が下敷きになりました。人々の皮膚は、ボロ布のように垂れ下がり、「助けて」、「水をください」と何度も言いながら、亡くなっていったのです。 それは、人間が人間らしい最期を迎えられなかった残酷な光景でした。
多くの夢や希望を一瞬にして吹き飛ばされた人たちの悲しい、「闇」の世界でした。
世界の国々では、今も、紛争や暴力によりたくさんの命が奪われています。僕たちのような子どもが一番の犠牲となり、体に傷を負うだけでなく、家族を失い心に大きな傷を負っています。 日本でもまだ多くの人たちが原爆の被害で苦しんでいます。入退院を繰り返す被爆2世の人もいます。だから、まだ戦争は終わったとは言えません。
これから先、世界が平和になるために、私たちができることは何でしょうか。
それは、原爆や戦争、世界の国々や歴史について学ぶこと、けんかやいじめを見過ごさないこと、大好きな絵や音楽やいろいろな国の言葉で、世界の人たちに思いを伝えること。
今の私たちにできることは、小さな一歩かもしれません。
けれど、私たちは、決してあきらめません。
話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実を見つめます。
そして、世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います。
平成21年(2009年)8月6日
