ベストピア
月刊ベストピア

2008年12月号 第262号

希望の革命 6

 ベートーヴェン 第4回目 

(1)知が増すと不知も亦増す

 何事によらず、学びが広がり深まりますと、その何倍もの不知領域が出てきますので、発表するのが怖くなります。
 今回の連載も研究し終えたものではなく、独学で読み聞きしながらの発表ですので、恥さらしなものです。しかしベストピアの趣旨から、又、私信という甘えから続けています。
 今回は丁度12月で第九のシ-ズンですから、頑張ってそこまで到達したいと思います。

(2)第7交響曲

 初演は1813年ですが、草稿は1811年秋、完成は1812年5月となっています。これに続く第8交響曲も、1812年10月に完成しています。 1808年には第5交響曲を完成させ、同時に初演されている。

 [1] この頃の社会情勢をみると、1809年4月、オ-ストリアとフランスが交戦状態となり、5月にはナポレオン軍がウィ-ンに侵入してきた。 ベ-ト-ヴェンはウィ-ン脱出を考えていたが、ウィ-ンの最も裕福な三人の貴族が協力して、ベ-ト-ヴェンがオ-ストリアを去らないという条件で、年金を与えるようになった。
 「彼が生活に必須なる条件のために煩わさるることなく、その天才力の勇躍を挫折せしめざるに足るだけの生活保障を提供すべく決議したり」(RR48) (この年金の支給ははなはだ不規則で数年で終わっている)
 [2] 1811年2月ヨゼフィ-ネの再婚を知り、衝撃のあまり病に伏す。医師のすすめでテプリッツで転地療養中に、第7交響曲の草稿がはじまっています。
1809年にはピアノ・ソナタ第24番「テレ-ゼ」ピアノ協奏曲第5番「皇帝」を作って、ヨゼフィ-ネとの結婚を懇願していたにもかかわらず、その希望が完全に消滅してしまった。
 [3] 第7交響曲を聴いて、どの解説書よりも田幸正邦氏「ベ-ト-ヴェンの音楽の神骨頂」が、やはりピタリとしますので、その名文を紹介します。

 ベ-ト-ヴェンは、ヨゼフィ-ネがシュタックベルク男爵と結婚した衝撃を第7番交響曲に大爆発させた。彼はこの曲で狂人になったかのごとく叫ぶのである。 その叫びは、しかしながら、「ヨゼフィ-ネを愛している!」(2連打の多用)である。
 彼女が再婚してもなお、「愛している」と表明している。これ程の強烈の愛の叫びをベ-ト-ヴェンはこの作品に爆発させている。 そして、幸福であった頃を回想しながらすすり泣き、次第にさめざめと泣き出して終には号泣するのであった。 第2楽章で、ベ-ト-ヴェンは変奏形式を駆使して全作品の中で唯一涙を流す様を描いている。聴く者を激しく揺さぶる楽章である。
 彼のヨゼフィ-ネへの強烈な思いは第3楽章でも続く。ベ-ト-ヴェンは、“愛”の“2連打”を多用して彼女への愛を貫く決意を表明するのである。 そして第4楽章で、ベ-ト-ヴェンは“運命の動機”(3連打)と“愛”の2連打を併用して、彼女に永遠の愛を誓うのであった。 私たちは、交響曲第7番に秘められたベ-ト-ヴェンの強烈な思い、意図や姿を理解することができた。
 彼は、人生最大の悲劇をこの作品に残して後世の私たちに語りかけている、「諸君、女性を“愛する”という意味をこの曲から理解しなさい!!」と。

(3)第8交響曲

 第7交響曲につづいて、数ヶ月で完成させ(1812年10月)、1813年に初演されていますが、献呈者が「なし」となっています。 私が聴く限り、第7と同年代に作曲したとは思われない、明るく優しい曲です。第2楽章は交響曲4番の4楽章の延長線上にあるようです。
 このことは田幸氏も同様の指摘をされておられるので、私の耳もそうあなどったものではないということになります。
 大曲で献呈者「なし」になっていることから、「不滅の恋人」と密接に関連すると言われています。極めて神秘性に富むところです。
 こういった知識をもって再度聴きなおしてみると、新しい発見に感動するときと、知らなければ良かったと思うことの両方があります。 これが芸術の奥深さであり、解釈の自由があり、又、聞く者の状況によって変化するという変幻さがあります。

(4)第9交響曲に至るまでのベ-ト-ヴェン

 [1] 1814年はベ-ト-ヴェンの名声が高潮に達した年で、ウィ-ン会議において全ヨ-ロッパの一光栄として遇されたとありますが、 この光栄の時期に相継いで最も悲しく最も惨めな時期が到来することになります。
 [2] 1815年弟が結核のため死去、その子(甥)のカ-ルに父親と変わらない愛情を注ぎます。 カ-ルは“放蕩息子”を凌ぐもので、ベ-ト-ヴェンを苦しめ続けた挙句に、1826年夏、自分の脳天にピストルの弾を撃ち込むという自殺を図るも一命をとりとめた。 (ベ-ト-ヴェンは致命的な打撃を受け、立ち直ることはできず、翌年3月に他界しています)耳の病は確実に進行し、補聴器を使用し始める。リュウマチに襲われる。
 [3] 1817年ヨゼフィ-ネの心の病の回復が不可能であることを知り、その衝撃に打ちひしがれ狂乱の中で、ピアノ・ソナタ29ハンマ-クラヴィアを作曲した。
 [4] 1818年 甥カ-ルの乱費の為と思われますが「ほとんど乞食をしなければならないほどになっている。 困ってないかのように装わねばならぬ」を日記に残しています。全くの聾となり会話は全て筆談になった(ウィ-ン市立歴史博物館資料より)
 [5] 1820年 黄疸を発病
 [6] 1821年3月31日 不滅の恋人と思われるヨゼフィ-ネ死亡(42歳)ピアノ・ソナタ31番(献呈者なし)32番はヨゼフィ-ネが他界した悲しみの中で着手された。 32番ソナタ最終楽章は第9の3楽章に引き継がれてゆく(後述)
 [7] 1822年 完全な聾病になったことが公然と判明、唯一のオペラ「フィデリオ」の上演の時に指揮を中断せねばならぬという悲劇に直面した。

(5)第9交響曲

 ベ-ト-ヴェンが歓喜を頌めようと企てたのは、最も深い悲哀と落胆の極み、苦悩の淵の底からであった。しかしロマン・ロランは「それは彼の全生涯のもくろみであった。 またボンにいた1793年(23歳)からすでにそれを考えていた。生涯を通じて彼は歓喜を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きな作品の一つを飾る冠にしようと望んだ」(RR57頁)
 17歳で最愛の母を失い、自律できない父に代わって家庭をきりもりした若い心に壮大な人生脚本が与えられたと言うべきでありましょう。
 体も強くはなく、幼少期から急性腸炎に悩まされ、天然痘にもかかったらしく、眼も悪くしており、更に26歳からの耳の発病、 その後はリュウマチ・黄疸と完全な聾病という病の数々に苦しみ、精神的には不滅の恋人とは結ばれることなく、家庭生活には縁のない生活を送る、 そんななかで、歓喜を頌め歌うという意志の強さに圧倒されるほかありません。
 「忍従、自分の運命への痛切な忍従。お前は自己のために存在することはもはや許されていない。ただ他人のために生きることができるのみだ。 お前のために残されている幸福は、ただお前の芸術の仕事の中にのみある。おお、神よ、私が自己に克つ力を私にお与え下さい」との日記があります(RR42頁)。
 自己の芸術を通して、「不幸な人類のため」「未来の人類のため」der kunfrigen Mensch heitに働き、人類に善行を致し、人類に勇気を鼓舞し、 その眠りを揺り覚まし、その卑怯さを鞭打つことを義務としている。
 「彼は悩み戦っている人々の最大最善の友である。世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベ-ト-ヴェンはわれらの傍らへ来る。 ……中略…… このベ-ト-ヴェンの意志と信仰との大海にひたることは、いいがたい幸いの賜である。彼から勇気とたたかい努力することの幸福と、そして自己の内奥に神を感じていることの酔い心地とが感染に来るのである」(RR66頁)。
 「不幸な貧しい病身に孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間が、 みずから歓喜を造り出す ― それを世界に贈りものとするために、彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す、そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、 この言葉の中には彼の生涯が煮詰められており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった」
 『悩みをつき抜けて歓喜に到れ』(RR68頁)
  Durch heidlen Freude
 時期はまさに第9の季節です。なぜ日本人がという我々の愚問を全て捨て、自分の意志で第9を聴いてみると、希望の革命が起きてくるかもしれません。

(6)第9交響曲 その後のベ-ト-ヴェン

 [1] 第9交響曲の第2楽章は1815年~1817年の草稿、第1楽章は1817年~1818年この時に全曲の骨組みができたと言われています。 第3楽章は1821年ヨゼフィ-ネの死の悲しみの中で閃いたとのことです。 1824年3月に完成。初演は1824年5月7日でした。 正式名は『合唱を伴える交響曲』で彼自身の指揮とありますが、その時のプログラムにはベ-ト-ヴェンは「演奏の方針に参与した」と記されています。
 [2] いよいよ私は最も有名な文脈にたどり着きました。
 「ベ-ト-ヴェンに喝采を浴びせた会場全体の雷鳴のようなとどろきが、彼には少しも聴こえなかった。 歌唱者の女性の一人が彼の手を取って聴衆の方へ彼を向けさせたときまで、彼は全くそのことを感づきさえしなかった。 突然彼は帽子を握り、拍手しながら座席から立ち上がっている聴衆を眼の前に見たのだった。」(RR51頁)
 「ベ-ト-ヴェンは演奏会のあとで、感動のあまり気絶した。人々は彼をシントラ-の家に搬んで行った。 彼は着のみ着のまま飲まず食わず、その夜と次の午前中をうつうつと眠り通した」(RR61頁)
 その後バ-デンで休養することになりました。
 [3] 1825年4月19日 身体の不調を訴え、再び休養のためバ-デンへ。そして12月に弦楽四重奏第13番を完成して病に倒れました。
 [4] 1826年 甥のカ-ルのピストル自殺未遂事件に悩まされ、11月には絶筆となる弦楽四重奏第13番の第6楽章の修正。 12月1日旅先の宿で発熱、肝硬変。4回の手術に耐え、1827年3月26日召天(57歳)。 ベ-ト-ヴェンが息を引き取ったとき「嵐と吹雪の最中であり、雷鳴が鳴り渡っていた。そして彼の瞼を閉じてやったのは、行きずりの見知らぬ人の一つの手であった。」(RR65頁)
 葬儀には2万人とも3万人とも言われる人が参列したとあります。

(7)第9交響曲を絵にしたグスタフ・クリムト

 今回は問題提起にとどめますが、私の関心はベ-ト-ヴェンより約50年後に活躍した、グスタフ・クリムト(1862~1918)の壁画です。
 ウィ-ンのセセッション内にあります。正面から入りますと左側から物語がはじまり、正面は人間の罪の数々の象徴があり、 右壁には詩を読み救い出されるような場面があり、そして畳1枚の「空白」があって、歓喜の絵に至るベ-ト-ヴェンフリ-ズと呼ばれる連作の絵画です。
 この「空白」の意味を考えています。主観的な意味付けはできるかもしれませんが、ここ3年間文章にすることに困難を感じている事柄です。 来年もウィ-ンに立ち寄ってこの絵の前に立ち、東西文明に共通する「空」について、何かを感じとりたいと思っています。
 更に余計なことを一つ、篤姫(NHK放映)の冒頭シ-ンで写し出される篤姫の金箔着物の絵柄は、クリムトの有名なKissの絵柄にそっくりです。 何かメッセ-ジがあるのか?ご存じの方は教えてください。


孫の日記

「校内音楽会」   小原 ほのか

 11月21日に校内音楽会があった。みんな楽しみにしていた音楽会だ。お母さん、おばあちゃん、おじいちゃんが見にきてくれた。
 私たちは、6月から練習してきた篤姫と、虹色のハ-モニ-を発表した。しんぜん音楽会ですばらしい演奏をした五年生は最高に良い演奏ができたと思う。 発表する30分前の私はうまくいくかきんちょうして、モヤモヤしていた。ぶたいに上がるためにならび始めて、4年の演奏が終わった。 いよいよ私たちの最後の演奏が始まった。長い間ずっと練習してきた演奏は、心をこめて、みんなが一つになって、一番の演奏だった。 そのモヤモヤは、感しゃのはく手がワ-ッときて、スッキリした。
 おじいちゃん、おばあちゃんは、私たちの演奏がとても上手だったと、たくさんほめ言葉を送ってくれた。 おじいちゃん、おばあちゃんは、五年生の演奏が一番感動したと言ってくれ、私はうれしかった。がんばった分私に、喜びがきた。
 歌の時の表情どうだったと、私がお母さん、おばあちゃんに聞くと、
 「少し暗くって、しんけんなのは良かったが、楽しそうに歌うと良かったね。」
とアドバイスしてくれ、私は、
 「おしかったな、六年生に生かそう。」
と思った。
 そんな感動があり、すごく良かったのに、山村先生がいなかった。最後の演奏を先生に聞いてもらえなかった。私は残念でとてもさみしかった。
 今年の音楽会は、全部を通して一つの大きな思い出となった。