2008年10月号 第260号
希望の革命 4
苦悩をつき抜け歓喜に到れ!! (後編)
~ベートーヴェンの生涯と交響曲~
(1)現在におけるベートーヴェンの意義
2008年9月30日は、世界恐慌のはじまりであると言いうる歴史に残る一日となりますが、ベートーヴェンも彼の生涯の中で1789年のフランス革命を体験しています。
彼は1792年に出生地のボンから活躍の地ウィーンへ移っています。ウィーンは当時は神聖ローマ・ドイツ帝国の支配下にありましたが、ナポレオンの活躍はフランス一国にとどまらず、
ヨーロッパに大きな影響を与えていました。
現在進行している経済革命の論評は専門家に任せて、「希望の革命」の第4回目を進めてゆきます。
尚、現在進行形の経済恐慌は人類が生きてゆく希望を思い出せば、落ち着くところに落ち着くでしょう。
しかし、戦争がはじまるようなことになれば、人類は極めて危険な選択をしたことになります。各個人は覚悟して、その変遷を賢く見てゆかねばなりません。
(2)ハイリゲンシュタットの遺書(1802年)
ベートーヴェンの生涯を学ぶうえで、この年は一つの軸になります。
1796年(26歳)頃からはじまった耳鳴りは夜も昼も鳴り止まず、音楽家にとって致命的とも言える聾疾は、
これから時代を創ろうとする青年には恐怖で人に会うことも嫌うようになっていました。1801年には病を隠しきれなくなって、彼は絶望をもって医師と牧師に告白しています。
こんな肉体的な絶望の中にも、彼はジュリエッタ・ギッチアルディーへの恋の情熱に生かされ、人を愛する悦びの中にあった(月光曲をこの人に捧げている)。
幼稚で利己主義でコケットであった彼女が、ガルレンベルグ伯爵へ気持が移ってしまいます。
「これは彼がまさに破滅しそうにみえた唯一の瞬間であった」とロマン・ロラン(R.Rと略す)は記しています。
この体験と耳の病がハイリゲンシュタットの遺書になったと考えられます(その詳細はベストピア259号9日号参照)。
(3)第1交響曲
第一交響曲は1799年~1800年につくられていますが、それは病が徐々に進行中で、
悲愴が魂を支配しはじめている時期であるにもかかわらず「この交響曲は快活で憧れ心地に充ちている。そこには人を楽しませたい欲求と楽しませうるという希望とが感じられる」(R.R)
ウィーンにいて孤独で不幸なベートーヴェンが、生まれ故郷の追憶の中にその隠れ家を求め、父なる河ラインから生まれたのが第一交響曲であるといわれています。
明暗の変化と強弱の対比があり、充実感が私のような素人にも感じられる第1楽章。
ロマン的な情感が流れる第2楽章(モーツアルトの交響曲第40番第2楽章の最初に似ている)は流れるように聞くことができる。
第3楽章はベートーヴェンの交響曲に共通すると感じられる強弱の対比、躍動感があり、奔放なところも精力的な激しさ、ほとばしる生命力が感じられる。
第4章楽章は少し強烈さの中に明るい旋律があり、活気的に終っている。悩みをうち消したいような感じのする第1交響曲です。
(4)交響曲第2番
この作品は1801年~02年にかけて作曲され、初演は1803年4月5日。アン・デン、ウィーン劇場にて、ベートーヴェン自身の指揮によって行われています。
まさにハイリデンシュタットの遺書と同時併行的な時期に作られているわけです。
「度々こんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を失った。自ら自分の生命を絶つまでにほんの少しのところであった。私を引き留めたのはただ『芸術』である。
自分が使命を自覚している仕事を仕上げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ」(R.R)
現代訳では次のようになっています。
「私はもう少しで自分の人生に終止符を打つところであった。ただ芸術だけが、それが私を思いとどまらせた。私に課せられたすべてを成し遂げるまで、
この世を去る事は、私のはやはりできないのだ。私はこの苦しい人生を延長させよう。」(ウィーン市立歴史博物館出版ベートーヴェン)
そしてベートーヴェンが自覚した使命を次の段で記します。
「神よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。このベートーヴェンの心の中には、人々への愛と善行への好みが在ることをおんみこそ識っておられる」(R.R)
ベートーヴェンは自分をよく観つめ識っているのです。彼は激しい気性の中にも優しさに溢れる心を持っています。
困った人にやむにやまれずお金を貸したり(それを取り立てることもなく)、弱い人を見捨てて通り過ぎてゆくことがつらいと感ずる人であり、
又自然を愛し花や鳥に語りかけることを独白しているところがあります。
そんな優しさから来るのでしょうか。使命感について「自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、
価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽くした(人のある)ことを知って、そこに慰めを見い出すであろう。」
交響曲第2番はベートーヴェンの致命的な悩みの時期に作曲されたわけですが、
それは悲痛~忍従~絶望~再起~使命の覚醒~他人への思いやり~仕事の熱中へのプロセスが聞き取れるように感じます。
第1楽章 ラーン-悲しみをたたく、ドーン-苦しみをたたく音。その後、あまりにも美しい音色が悲哀を深めてゆく、沈重な苦しみを美しく伝えているように感じられる。
徐々に軽やかになり、オーボエの音色が希望を求めているようである。1802年10月10日のハクリゲンシュタットの遺書の展開のようである。
「親愛なる希望よ、さらばおんみに別れをつげる。誠に悲しい心を持って幾らかは快癒するであろうとの希望よ。この場所にまで私が携えてきた未来よ。
今やそれは全く私を見捨てるのほかない。秋の樹の葉の地に落ちて朽ちたように-私のためには希望もまた枯れた。
-中略 美しい夏の日々に私の魂を生気づけた高い勇気-それも消えた。おお、神の摂理よ-歓喜の澄んだ一日を一度は私に見せてください。-略」
耳の病の進行という不安、失恋の心痛から勇気をふりしぼって立ち上がろうとする姿が後半に聞かれるようだ。悲しみから喜びへの転換が見えそうであるが、まだ不安から脱せない。
第2楽章 絶妙に美しい、暖かく穏やかかつ幻想的である。苦悩を過去の思い出の中で癒していこうとする人間の心の営みを表現しているようである。
ボンからみる父なる河に沈む夕陽を見て瞑想しているかのようである。
第3楽章 再び現実に戻り耳鳴りの強弱を繰り返す。時折聞こえる管が慰めになる。
第4楽章 切り裂くような鋭い感じで始まる。病へ挑戦してゆこうとする意思の表明をしているようである。繰返し現れる激しい音と同時にいつも美しい音が伴奏されている。
一度この動きは終わる。力強い決意の音が出て、病と闘いつつも前進するという勇気を持って断定的に決断的に終わる。
交響曲2番は悲哀のときに聴くと共感的である。悲哀をもったまま、痛みをもったまま前進できる。暗から明への転換が静かに感じ取れて勇気付けられる。
(5)交響曲第3番(エロイカ)
この曲は「英雄」と呼ばれ、共和政治を実現してくれると思ったナポレオンに献げようとして作曲されたこと。
しかしナポレオンが自ら皇帝に即位したことによって、ベートヴェンが「あの男もまた平凡な人間に変わりなかった。・・・」と怒って総譜の表紙を破ったという有名な逸話がある曲です。
ベートヴェンの政治志向は、誰しもが政治に携われることを望み共和制に人類の幸福の実現を期待していたと思われます。
それは彼の生きた時代が保守の反動が非常に強い性格を帯びていたことに関連すると考えられます。
生誕地ボンは選帝侯とケルン大司教の本拠地となっていましたから、教皇と皇帝の二重支配構造で重苦しい時代がドイツには続いていました。
移ってきたウィーンではハプスブルク家の末期ですから、崩壊前の強力な保守思想が優勢でした。
一方フランスではヴォルテールやルソーの思想が最高潮に達し、フランス革命が起こり、その混乱の終息としてナポレオンに期待がかかっていた時代でした。
交響曲第3番は、1803年~04年にかけて作られ、初演は1805年4月ベートーヴェン自身の指揮によって行われています。
上記のような時代背景や通説があるにしても、何度聴いても私にはナポレオンの勇姿が、この交響曲からは聴き取れないのです。
聞き手の自由な解釈や感じ方が許されるのが芸術のいいところですから、私は自分なりに次のように感じ、それを言葉で表してみました。
第1楽章 ドンドンとニ連打、前置きなし。単純な導入は決断的と感じます。その後は底力と芯の強さを堂々と訴えている。
患難忍苦にもめげず、生きるぞという内面的な戦いが感じられる。外に対しての戦闘的な勇猛さを私は聴くことができない。
後半は柔和すら感じられると共に苦悩に満ちた英雄はベートーヴェン自身ではないかと考える。
名声を得ても進行する耳の病と思うようにいかない人間関係・不器用な生き方で苦悩の底にあるにもかかわらず生き抜いて芸術を通して英雄となった自分自身への賛歌である。
第2楽章 この交響曲の中心は、ここにあるのではないかと考えます。 ベートーヴェンはこの交響曲を1801年から書き始めているようで、ピアノ・ソナタ第12番作品26が「葬送」(その第3楽章は英雄の死を弔う葬送曲)と名づけられ完成しています。 この完成の後、6月に親友で牧師のアメンダ宛に、11月に親友で医者であるウェゲラー宛に耳の病について告白しています。 そして1802年のハイクゲンシュタットの遺書に至るわけですから、自らの葬送はかくあるべしとしているのではないだろうかと考えます。 この楽章は、オーボエで幾度も鎮魂の調べを奏でる美しい終わり方は英雄として納得のゆく俯瞰的な調べです。
第3楽章 タタタ・・・と螺旋階段を昇ってゆくよう、迷いなく昇ってゆくような感じです。オーボエとホルンは迎えが備えられているという安堵感を与えます。 短い楽章ですが昇りきって終わるところがベートーヴェンらしいと感じます。
第4楽章 突然目が覚まされる音で始まります。3楽章とは違った世界です。「目覚めよ」との声が響いてくるようです。
谷底から徐々に登ってくるという感じと共に苦しんでいる、不安がある、又喜びもあるという喜怒哀楽の渦巻く世界を勇敢に行こう行こう(ギャーティギャーティの感じ)と突き進みます。
オーボエの音はねぎらいと待望が聞こえるようです。まだ死ぬのは早い、なすべきことがある。使命はまだある。ここで英雄は死せじという断定で終わっています。
(6)芸術は解説してはならない
密かに自ら感じ思い考えるのが芸術との交流です。自分でも聞くときの状態で、どのようにでも変化する交響曲です。聞く者の時と場と心の状態で変ります。
ですから、この様な主観的な解釈を記してはならないのですが、日記のような私信ですので、67歳の時にベートーヴェンとどう向き合ったかを自分のために残しておきたいと欲し、
敢てここに書きとめた次第です。
次号は交響曲4番5番6番にチャレンジします。
孫の作文
「青春18きっぷの旅」 小原 ほのか
私は8月5日に青春18きっぷで滋賀県(母方の実家)に行きました。
まず、7時32分藤枝浜松行きに乗りました。藤枝、六合、島田、金谷、菊川、かけ川、愛野、ふくろ井、般田、豊田町、天竜川、終点浜松で乗りかえをして、 今度は浜松から豊橋まで乗りました。浜松、高塚、まい坂、弁天島、新居町、たか津、新所原、ニツ、豊橋で乗りかえしました。 次は豊橋から大垣まで乗りました。豊橋、三可谷、がま郡、岡崎、安城、かな谷、大府、金山、名古屋、お張一宮、ぎふ、西ぎふ、穂積、大垣で乗りかえをして、 大垣から米原へ行きました。大垣、垂井、関ヶ原、柏原、近江長岡、亜星ヶ井、米原で乗りかえしました。次は草津まで乗りました。 米原、彦根、能登川、近江八幡、野州、安山、草津で最後の乗りかえです。
この時私は、たくさん電車に乗ったので、
「南草津まであと少しか。」
と言いました。そして最後の電車が着きました。最後は、草津、私たちの終点南草津です。
「やっと、着いたぁ。」
と言いました。
青春18きっぷの旅は、新幹線とくらべ電車に長く乗っていたけど、いくつか発見がありました。 まず一つは、人が急にふえたことです。それはどう言う事かというと、学校に行く人とかは多かったけど、私たちみたいな旅行に行く人はあまりいませんでした。 でも、名古屋へんになると、急に乗ってくる人がふえました。そしてまた岐阜へんで人がへりました。それでまた草津で人がふえました。ここで発見をしました。 静かな町よりにぎやかな町の方が、人が多いとわかりました。
2つ目は、関ヶ原へんの外をよく見てみると、家の屋根の形が他の町とちがいます。 岐阜県は冬になるとたくさん雪がふるため、家の屋根がすべり止めになっています。それはどんな役に立つかと言うと、屋根に雪がつもってもすべり止めになっているので下に落ちません。 だから、ふ通の屋根にくらべて、でこぼこした感じの屋根でした。こんな工夫を岐阜県ではやっているんだなと気付きました。
一ヶ所だけ、急いで乗りかえをしたところがあります。それは豊橋から次の電車に行く時の乗りかえです。 はじめは、浜松から岡崎まで行く予定だったけど、電車の放送で大垣方面の電車で快速電車があると聞いて、 豊橋で降りて大急ぎで3分間の間で階だんを上り下りしてギリギリセーフで電車に乗れました。
私は「いろいろ。」しながらイスにすわりました。他の人を見ているとどの人が青春18きっぷを持っているかすぐ分かります。 どうしてかというと、みんなわたしみたいにあせっているからです。
こんな旅もいつもとちがい、色々な駅や発見などが出来て楽しいです。今度は青春18きっぷで他の所に行ってみたいです。 後、もう少し大きくなったら、一人とか、友達と旅をしてみたいです。
先生のコメント
いい旅をしましたね。どういうわけか日本人は"はやくて""かんたん"なことが好きになっています。でもこういうゆっくりした中でこそ発見があるんですよね。 ひとつひとつを積み重ねていく大切さを感じています。
