ベストピア
月刊ベストピア

2008年9月号 第259号

希望の革命 3

 苦悩をつき抜け歓喜に到れ!! (前編)

(1)はじめに

有名なベートーヴェンの言葉、ある人に宛てた手紙の中の一節です(1815年10月19日)。同じ手書筒の中には、
 「無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこう言えるでしょう! 最も秀れた人々は苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだと・・・」
 長い休みをいただいて今回はヴェローナ(イタリア)、ウィーンとボン(ドイツ)の三都市を旅してきました。 目的はボンで開催されるベートーヴェン祭でクルトーアズマの指揮で9曲の全交響曲を聴くことです。
 クルトーアズマ(81歳)についてはBestopia252号(2008年2月号)にベルリンの壁を非暴力で破ることを指導した勇敢な一人として記しました。 その彼の最後とも言えるベートーヴェンチクルスに興味が喚起されての旅でした。
 生誕地ボンでは毎年この時期に行われる恒例の祭事ですが、誰が指揮するかによって世界からの収容が変わるのは当然のことと言えるでしょう。

(2)『ベートーヴェンの生涯』を書いたロマン・ロラン

 こういう題名で有名な本があります。著者はロマン・ロラン(仏人1866~1944)です。 ベートーヴェンの生涯は1770年12月16(17)日から1827年3月26日(56歳)ですから、ロマン・ロランとの時代には100年の歳月の開きがあります。 彼の代表作『ジャンクストフ』はベートーヴェンの青少年時代を彷彿とさせる歴史小説又は音楽家小説として余りにも有名です。 まずロマン・ロランのベートーヴェンへの憧憬と敬愛に満ちた書き出しから紹介をします。

(3)ベートーヴェンの生涯概略

[1]生誕地ボンの時代(1770~1792)

 ベートーヴェンは1770年12月16日ライン河畔のボン市の貧しい家のみすぼらしい屋根裏部屋で生まれています。 その家は今も記念館として残され世界中から多くの人々を魅き寄せています。私も今回の旅で訪問しました。
 彼の父はアルコール中毒で聡明とは言えなかった。母は召使階級の婦人だった。(再婚)7人の子供が生まれ、生存したのは3人でベートーヴェンは次男であった。 彼が4歳になると父は日に数時間も無理やりにクラヴサンを弾かせたり、ヴァイオリンを持たせて一室に閉じ込めたりした。それに反抗したベートーヴェンは父の暴力をたびたび受けねばならなかった。
 父は彼の音楽の才を利用して神童の看板を作って子供を喰いものにした。 8歳でケルンにてデビュー演奏会を開くが、その時父は彼を6歳と発表していた。幼い子供が家計を支えていた。
 1787年17歳の時に彼が敬慕してやまない優しい母が肺結核で亡くなった。ベートーヴェンの母に対する感情は次のように記されている。 「母は僕のために本当によい母、愛すべき母、僕の最良の友であった。 お母さんという懐かしい名を僕が声に出して呼びかけることができ、またその呼びかけが聴かれていたあの頃の僕は、人間の中の最も幸福な人間であった」母の死は1787年6月であった。 その4月にベートーヴェンはモーツアルト(1756~1791)に教えを受けるためにウィーンに出ていたが、2ヶ月足らずで戻らざるをえなかった。 酒呑みの父には一家の主になる能力はなく、ベートーヴェンが10代で家の主となり、2人の兄弟の教育の責任も負うことになった。 父が受け取る年金を浪費してしまわないように、父の年金をベートーヴェン自身が受け取るという屈辱的な生活が、1792年に父が死去するまで続いた。 父の死去により1792年11月ボンを離れ、ウィーン(当時はドイツ領)へ永住する。故郷を愛しつつも二度と戻ることはなかった。
 「ふるさとよ、美しい土地よ、この世の光をそこで初めて私が見たその国は私の眼前に浮かんで常に眩しく判然と見える。 父なるラインは精美なボンの町においてこそ最も美しくかつ優しい。」彼は自然を愛し花や雲に語りかけ、自然はベートーヴェンが生きるための不可欠条件のようだった。 「私ほど田園を愛する者はあるまい。私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する」と言っている。これは坂村真民先生の感性に通じるものがあります。
 私は今回このボンに5泊してその周辺をめぐり、ロマン・ロランの書いた一つ一つの情景を追体験してきました。

[2]活動の場ウィーン時代(1792~1827)

 1792年ウィーンに到着してヨーゼフ・ハイドンらの教えを受けるが、モーツアルトはその前年逝去している。
 1790年代にはベートーヴェンはウィーンにおいてピアニスト及び作曲家として有名になっており、多くの貴族達の庇護を受け経済的には安定している。 然し1794年24歳頃から始まったと言われる“耳鳴り”という悲哀がすでに彼の人生の扇をたたきつつあった。 「それはベートーヴェンの内部に住みかを定め、そしてもはや再び立ち退こうともしなかった」
 1790年26歳の頃からは聾疾はその猛威を振るい始め、夜も昼も耳鳴りが絶えなかった。 そして彼はまた腸の疾患に終始悩まされていた。
 「聴覚の衰えは僕の仕事では恐ろしい状況で僕は惨めに生きている。 2年以来人々の中へ出ることを避けている。僕は聾なのだと告げることができないために。 僕の職業が他のものだったらまだしもどうにかいくだろうが・・・少し離れているともう楽器や歌声の高い調子の音は聴こえない、 低い声で話す人の声もときどきほとんど聞こえないことがある・・・ブルターク(英雄伝)を読んで僕は諦念へと導かれた。 できることなら僕はこの運命に戦い克ちたいのだが・・・諦念!何という悲しい避け所だろう!」
 これは1801年最も親しい友人2人への手紙の一部であるが、数年間彼は誰にも病のことを話さず、悶々と苦悩していたのであった。 そして1802年有名なハイリゲンシュタットの遺書となる(ハイリゲンシュタットはウィーン郊外の地名で今でも小さなベートーヴェンハウスが記念館として寂しく残っている)。 遺書の末尾は希望への叫びのようになっている。
 「ハイリゲンシュタットにおいて、1802年10月10日。
 親愛なる希望よ。 -さらばおんみに別れを告げる-まことに悲しい心をもって。 -幾らかは快癒するであろうとの希望よ。この場所にまで私が携えて来た希望よ。 今やそれはまったく私を見捨てるほかにはない。秋の樹の葉の地に落ちて朽ちたように-私のためには希望もまた枯れた。 ここに来たときと殆んど同じままに-私はここから去る。美しい夏の日々に私の魂を生気づけた高い勇気-それも消えた。 おお、神の摂理よ-歓喜の澄んだ一日を一度は私に見せてください。すでに久しく、まこと悦びの深い反響は私の心から遠ざかっています。 おお神よ、いつの日に-おお、いつの日に-私は自然と人々との寺院の中で、その反響を再び見出すことができるのですか! もはや決して-否-おお、それはあまりにも残酷です。--」

 遺書の本文に戻りますと次のような文章があります。 「~私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、誰かが羊飼いの歌を歌うのを聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう! たびたびこんな目にあったために私はほとんど全く希望を喪った。自ら自分の生命を絶つまでには、ほんの少しのところであった。 私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を成遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。 ~中略~そして不幸な人間は、自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、 全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい!」
 この時期に交響曲1番が完成している(1800年) 「この交響曲は快活で憧れ心地に充ちている。そこには人を楽しませたい欲求と、楽しませ得るという希望とが感じられる」(ロマン・ロラン) 絶体絶命の呻きからベートーヴェンを救い出したのは天職(彼の場合は芸術、音楽、文学)である。 「天職とは苦悩している人間に幾らかの勇気を吹き込むことである。僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たなければならぬ」
 そのために「忍従、自分の運命への痛切な忍従、お前は自己のために存在することはもはや許されていない。 ただ他人のために生きることができるのみだ。お前のために残されている幸福は、ただお前の仕事の中にのみ有る。おお神よ、私が自己に克つ力を私にお与え下さい」と呻吟している。
 ベートーヴェンの時代、芸術は殆んど支配者階級に独占されていました。 その庇護なくして芸術家は生活をなし得なかった。その時代において「僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たねばならぬ」と言っているところに革命的な発想が潜んでいるのです。
 この天職感は坂村真民先生の「わたしの詩」に通じています。
「わたしの詩は、生きるために苦しみ、生きるために悩み、生きるために泣き、生きるためにさげすまれ、はずかしめられてもなお生きようとするそういう人たちに捧げ、 そういう人たちに読んでもらうわたしの願い、わたしの祈りの塊であり湧き水である。」
 肉体の苦痛にさらに別の厄災が付け加わった・・・ベートーヴェンは絶え間なく恋愛の熱情につかまれていた。 これは、芸術は感性から湧き出されるものですから当然のことです。 但し、その感情の発露の仕方はさまざまで情熱の逸楽的発露が多く見出されるが、 ベートーヴェンはその魂の中に清教徒的な或るものを持っていたとロマン・ロランが指摘しているのは共感できるところで「月光の曲」や「エリーゼのために」のピュアな美しい音楽がそのことを証しています。 「絶え間なく熱烈な恋にとらわれ、絶え間なく恋の幸福を夢見ながら、たちまちその幸福の夢の儚さを悟らされ、苦しい悲しみを味わいさせられていた。 ~恋ごころとそれへの誇らしい反抗との交互作用の中にこそ、ベートーヴェンの霊感の最も強大な源泉が見出されるのである」(p.31)
 1802年の「月光の曲」を献げた女性は結果的にはこの女性はコケットで幼稚な利己主義者でベートーヴェンが助力を与えていた男性と結婚することになり、 ベートーヴェンの絶望感を強化する。しかし1803年には交響曲2番が完成する。 この曲は彼の悦ばしげな恋の感情を反映しつつ、肉体的苦痛も人間の裏切りも乗り越える意志の力強さを表現している。 第4楽章は悲しい想いを吹き払い生命力のほとばしる力強さと昻揚感で終っているのです。
「ベートーヴェンは幸福でありたいと望んでいる。この時、彼は自分の疾患を不活だと信じたくない。 彼は快癒を望んでいる、愛を望んでいる、彼は希望に溢れている」(p.34)
 「僕の体力も知力も今ほど強まっていることはかつてない。僕の若さは今始まりかけたばかりなのだ。一日一日が僕を目標へと近づける。 自分では定義できずに予感しているその目標へ・・・僕がこの病気から治ることさえできたら、僕は全世界を抱きしめるだろうに!(第9の予感か?) 少しも仕事の手は休めない。眠る間の休息以外には休息というものを知らずに暮らしている・・・今の不幸の重荷を半分だけでも取り除くことができたらどんなにいいか。 このままでは到底やりきれない。運命の喉元をしめつけてやる。断じて全面的には参らない。おお、人生を千倍にも生きられたらどんなにいいか」
 ベートーヴェンの生涯と交響曲の誕生を理解する上でこの1802年の出来事の理解が大切です。来月の後編でもう一度整理してゆきます。


記念記事

 よく新聞が「あすは何の日」という企画をします。大抵読み流しますが、08年9月17日には目が動かなくなりました。
 それは1970年9月17日だったからです。記事は“日本企業としては初、ソニーが世界一審査の厳しいNYで上場”ということで、 当時SONY全売上の60%が輸出であり世界に通じる会社であるという内容で、最近にない快挙として技術立国が成熟に向かうスタートのようでした。
 この年は大阪万博、巨人がV6を達成しました。

 この記事には載っていませんが、実はもう一つ大きなことがあり、ボーイング747が羽田から米国に就航した年でした(1970年1月21日)。
 そしてその年、私はこのボーイング747に乗って、初めての海外サンフランシスコに向かい、100日間の企業研修を受けさせていただいたのでした。
 29歳の誕生日をバークレイの寮で祝っていただいたのですが、余り嬉しくはなかったのです。 二つ目の会社で5年勤務して、一番若くして米国に行かせてもらったのですが、研修を受けて学びを深めていくうちにだんだん「このままでいいのか」という疑問が湧いてきたのです。 決断は、サンフランシスコ・ジャイアンツの試合に招待され観戦していた時に、隣に座った親子連れの父親の方から話しかけられ会話をしているうちに、 「米国人は現状に甘んじないでどんどん冒険をして職業を変えて自分の好きなものを見つけようとしている。 それに比べ日本人はおとなしく一つの会社で一生を終わるらしいが、君もそうするのか?」という疑問を投げかけられたのです。 その時の父親は次の就職を見つけるために失業中であるというのに呑気に息子(小学生位)と野球を楽しんでいる。何という余裕感!!
 米国の研修は、業界会社の選抜メンバーの集まりで、私は色々な事情でリーダーシップが全く取れなかった。 全部が年上の人ということもあったのですが、原因はそれだけではなかったのです。
 バークレイの校舎の芝生に寝そべって紺碧の空を仰ぎながら、隣の10歳年上の人に「帰ったら会社を辞める」と言ったそうです。 私には記憶がないのですが、それから1年後それを実行し周りの人を驚かせたというよりも顰蹙を買ったのです。
 サンフランシスコの研修中に、企業訪問でシカゴの範囲は移動しましたが、東海岸に行く人は私を含めて少数でした。
 決意したら何も恐くなくなり、ニューヨークからワシントンへ、そして大西洋を渡ってロンドン、コペンハーゲン、そして最も行きたかったスイスのアルプスを見て帰国。 辞表を出したのがその10ヶ月後の1971年夏でした。
 その年に息子が生まれました。当然悪戦苦闘が続くわけですが、私は面倒をよく見てくれた会社を裏切ったのです。
 人生はプラスマイナス零の考えの通り、その報讐は36年後自らが部下に裏切られるという結末を持って終わるのです。それが2006年9月でした。
 一つの小さな記事から筆が進んでしまった一文です。


孫の学級参観

 9月28日(金)、二人の孫の学級参観に行きました。
 少子化に伴い、小学校の統廃合が進む中で、孫たちの通っている小学校は地域の中校で1,000人のマンモス校になっています。
 孫娘の5年生は5クラス、弟の3年生も5クラスです。常に良い企画をして先生方の熱心が遠く離れた私共にも伝わる、とても素晴らしい学校です。
 5年生の参観授業は音楽です。全クラスが講堂でオーケストラ形状になって、NHKドラマ篤姫のテーマ曲を演奏する風景を参観しました。
 全員が何らかの楽器を奏でるのですが、孫娘はアコーディオンを持っていました。 小さな体でいかにも重そうなアコーディオンを持って、今にもバランスを崩して倒れそうに見えましたが、全員の堂々とした演奏に参加した多くの父兄(親父母)は大感動でした。
 教える先生の姿は、見事に素晴らしかった。主人公篤姫の生涯の喜怒哀楽をどのようにして音で表現するかを教えているのです。
 「5年生に判るのかなぁ」と思うのは、私の既成概念で、先生の感動的な教え方と指揮で、子供たちはそれなりに解釈して練習に励んでいるのです。
 ステージのはじめの演奏と最後では断然の進歩です。 第二ラウンドは、全員の合唱練習ですがこれも指揮する先生の毅然とした態度と全員を見渡す優しい指導でどんどん良くなっていきます。 全て感動の45分間でした。11月下旬に全校生の音楽発表会に向けての練習風景でした。
 次は廊下を走って3年生の光棋の道徳の授業を参観しました。“置いてはいけない場所に自転車を置いたら”という主題のようでした。
 長い設例文を先生が白板にわかり易く図解してあり、全員が自分の意見を発表するという風景です。
 まず感心したのは、席を立つと必ず椅子を入れること。全員が習慣化できていました。次に何かが終わるたびに全員が“ありがとう”という言葉を発すること。 更にディスカッションが全員参加で、タイムキーパーがいて時間管理がされていること。
 最後に先生が“今日のまとめを書いてください。時間は何分いりますか”と生徒に問うのです。色々な答えが出てきます。 5分という生徒がいましたが、“それは少し長すぎます”とちゃんと指導しているのです。
 自発性を待ちながらも、わがままにならないポイントを弁えた指導方法です。
 とかく学校教育には批判的な世相がはしるなか、企業教育にも匹敵する素晴らしいものでした。
 各学年毎の学級目標があり3年生は『すまいる』
  「す」・・・すすんで行動する
  「ま」・・・まとまって協力し合う
  「い」・・・いつもえがおであいさつする
  「る」・・・ルールを守って生活をする
 5年生の学級目標は『暖か反応36』(36とはクラスの生徒の数です)。これはまたまたすごい目標ではありませんか。
 「はい、わかりました」、「ありがとう」、「優しい心を持って生活するには相手によく反応すること」を習慣化しようとしています。
 感動の一日に感謝して、家族で久し振りに楽しい夕食はパラダイスでした。

孫の作文

「おじいちゃんからの手紙」

 この間私のおじいちゃんから手紙が来ました。その手紙はドイツから送られてきました。おじいちゃんは外国に行っていたのです。
 おじいちゃんが行った場所は、イタリアのミラノ、ヴェローナ次に、オーストリアの首都ウィーンそして、ドイツのボンに行ってきたそうです。 三ヶ国五都市での滞在です。ベートーヴェンの生涯の研究が目的で行ったそうです。 ベートーヴェンは、どんな苦しみやなやみがあっても死にそうな苦しみをのりこえて、250年も後の人に良いえいきょうを与え続けている立ぱな音楽家です。 と書かれていてベートーヴェンはすごいな、こんなにもの間苦しみをのりこえて立ぱな美しい曲をたくさん作り、すごいと感じました。
 私もおじいちゃんみたいに、大きくなったら、一つの目的に対してどんな発見があったのか、どう感じたかなど、外国に行き調べてみたいです。 その他にベートーヴェンの色々な曲をひいてみたいです。

孫の詩

「田んぼがゆれる」

サラ、サラサラ
サラ、サラサラッと
田んぼがゆれる
風がふくにつれ
サーサー、サラサラ
サラッとサラサラ
まるで運動会のウェーブのようにゆれる
サーサーサラサラ
サーサーサラサラ
この田んぼの音
その音色きれいだな