2008年2月号 第252号
1.ホームページの開設
ベストピアへようこそお越しくださいました。印刷もできますのでご利用くださいませ。
(1) “ぶどう園通信”について
このホームページの左側に、“ぶどう園通信”をクリックして頂きますと、私の恩師滝沢陽一先生からのメッセージが開きます。印刷出来るようになっております。 始めに私の紹介文章が有りますので詳細はページインしてくださるとして、二月に85歳になられた先生の個人誌です。ベストピア250号の情報、知識の原点になっています。 先生のご了解を得て、その第一号から掲載いたします。
第一号は 時間論です。有名な「モモ」の登場です。凡そ20年前、私がリーダーシップの模範が、「モモ」にあると発表しました。 書店からモモが消えたと言われるほど若い経営者に一寸したモモブームが起きたことが懐かしく思い出されます。
滝沢陽一先生は牧師でありながら、鶴見大学文学部長にもなられ、道元禅師にも詳しく 正法眼蔵の「有時」とアウグスチヌスの「告白」が並列して引用され時間論が比較的平易に展開されています。
不定期発行とお聞きしていましたので年四回位かなと油断しておりましたら、1月中に二号を書き終えられました。
第二号は、「空の空」と題して般若心経の平易な解説も入っています。ここでは余計な解説は控えますが、85歳になられ、始めての入院生活を体験後、 「いずれ人工透析がはじまり何年か生き延びますので、新たな石――助けの石―を一つ置かせていただきます。」と語っておられます。私は遺言のつもりで読ませていただこうと思っています。
「助けの石」は私の加筆です。その意味は、ぶどう園通信をクリックしてお確かめください。
(2) リンクについて
このホームページはビジネス版ではありませんので、静かに穏やかにを心がけております。
坂村眞民先生のたんぽぽ堂のみにしております。2006年12月11日97歳で召天かつ昇天されましたが、ご家族が編集されておられます。
ベストピア本文にも眞民詩を多く引用させて頂きますので覚えてアクセスしていただければ幸いです。
冬の子は 冬の子らしく
凛々と生きてゆこう
風よ鳴れ 雲よ飛べ
(念ずれば花ひらく 旧版76~77頁)
2.壁を破る
壁には、物理的なものと精神的なものがあります。後者は目に見えない他者との壁、自己の中にある壁があり、いずれの場合にも厄介な存在です。
破るという否定的な言葉も壁とともに用いると肯定的で創造的な意味になります。自己変革にはブレイクスルーと言われ一時は大ブームを引き起こしました。今回は物理的な壁について考えます。
今年の1月NHKで、“証言でつづる現代史”と題する番組が繰り返し放映されました。
ベルリンの壁の崩壊のプロセスを追った感動と歓喜を与えてくれるものです。私見を混えて振り返ってみます。
(1) ベルリンの壁
ベルリンの壁は1961年から1989年の28年間存在した。ドイツが第二次世界大戦で敗戦国となり、連合国に占領され分割統治されることになり、
敗戦から16年を経過して思想の摩擦により壁ができた東西冷戦の象徴となった 壁を建設したのは東ドイツで、
表向きの趣旨は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものというが、本当の狙いは東ドイツ国民が西ドイツへ流出するのを防ぐことであった。
これらの壁は 全長155キロあって、今でもその一部が歴史的記念物、即ち、戦う人類の愚かさを忘れないための象徴とされて保存され観光することができる。
壁は段々と頑丈にたっていったが、それでも多くの人々が東から西は自由を求めて非合法な脱出をした。
ある人は川を泳いだり、ある人は壁をのりこえようとして、東ドイツ国境警備隊により狙撃された。その死者の数は192名。
今のその鎮魂の碑がベルリンの市内にあり、当時の悲惨さが示されており、繰り返しのない祈りがつづいている。
(2) 崩壊前夜と平和の祈り
ベルリンの壁の崩壊は1989年11月9日の深夜で、全世界にテレビ放映されたことを記憶している人も多くいるが、
東欧諸国の民主化が本格的に始まった象徴的な事件となった。
今般NHKはその一ヶ月前に起きたライプチッヒでの平和の祈りとデモを当時の関係者からの証言をまじえて世に知らせた。
ライプチッヒはルターやバッハを訪ねる旅では必ず訪問する美しい都市である。
そこには市民が誇るゲバントハウスと聖ニコライ教会(バッハがオルガンを弾いたこともある)がある。
壁の崩壊の原点となるのが聖ニコライ教会で今も平和の祈りと非暴力の象徴としてのローソクの灯がともし続けられている。
東ドイツには言論の自由、集会の自由、旅行の自由は無かったが、政府は市民の不平不満の捌け口、
ガス抜きのために教会だけにその一部を認めた。1980年頃から東西冷戦に危機感を持つ若者たちが聖ニコライ教会に集まりだして意見の交換が始まった。
想像するに、意見を幾ら戦わせても何も行動できない閉塞感と焦燥感にさいなまれたことであろう。
こんな時に、建設的な人々に自然発生的に出てくるのが祈りであった。
1982年9月ある若者から平和の祈りを毎週やりたいとの要望が出たことによって、毎週月曜日夕方5時から6時までの集会が始まった。
反戦や人権、環境に関心をもつ者が集まった。その中にはカールマルクス大学で神学を学んでいた者から、
反戦の主張をして大学に進学できず家具職人になった者等、幅広い人々が参加していた。1982年2月には平和の祈りの後、街をデモする所謂月曜デモが始まった。
1985年ソ連で始まったペレストロイカ(改革、再構築)が大きく影響を与えてデモに参加する人が増え始めた。
次第に大きくなるデモに独裁者ホッネェツカーが嫌悪感をあからさまに示し始め治安部隊を出動させるまでになった。
1989年10月7日が建国40周年の式典日の出来事はまことに面白い。
来賓で招かれていたソ連のゴルバチョフがホーネッカーの体制を批判する有名な演説をすることになるのである。
「東ドイツの国民は、世界が変化していることを認識しなければならない。」この演説を聴いたベルリン市民は勇気づけられ、
自由と改革を訴えるデモをはじめ、その鎮圧に軍隊が出動した。一発触発の危険な状況となった
(このことを50キロ離れたライプチッヒの一般の市民は知らなかった。そのことが幸いして奇跡が始まった)。
月曜デモは二日後に迫っていた。ホーネッカーの側近及びデモのリーダー達は流血銃撃に発展しかねない危機的状況を察知していた。
双方がこれを何とか回避する方法を論議することになった。側近の一人であったクレンツ(次期政権を担当した)は、ホーネッカーに知らせず、英断をした。
それは、デモ隊が暴力を振るわない限り、治安部隊は発砲しないこと。更に、銃には実弾を入れないことを約束した。
これに呼応するかのように、市民の側も動いた。
ゲバントハウスで指揮をとっていたクルトマズアが政府当局の書記官に呼びかけその日のうちに6人のメンバーで声明書を作り署名をし市内80ヶ所で放送した。
その内容のエッセンスは「暴力をもって守らねばならない体制などは価値のないものである」市民に非暴力による整然としたデモを命がけでよびかけた。
6人は射殺されるかもしれない恐怖を乗り越えての覚悟勇断であった。音楽家らしく声明書には東ドイツ国歌の一節―(母親は二度と息子のために涙を流さない)の楽譜が添付されていた。
(3) 壁を破るローソクの灯
1989年10月9日午後5時いつものようにセイニコライ教会で平和の祈りの集会が始まり6時に終わった。 教会の外には数千人の人々が手にローソクの灯をかかげてデモを始めていた。 当時も今も牧師であるクリスチャン・フューラーは教会の扉を開けて「私は何千もの揺らぐ光に迎えられた。」と証言している。 ローソクを手に持つということは、火を消えまいとして両手を使う、そのことによって棒や石を持つ余裕がなくなる。つまり、非暴力となることを意図していた。 デモのリーダー達の優れて卓越した知恵の発揮であった。町には8000人の治安部隊が配備され、銃には実弾がこめられていた(上部の指令は無視されたか届いていなかった)。 一発触発の緊張状況の続く中7万人の人々がデモに参加した。7万人を8000人の部隊ではどうしようもなかったというのが現場にいた人の証言である。 しかし、デモ隊が暴力をフルはない限り治安部隊は発砲しないという約束は守られた。 この少し前のルーマニアではデモ参加者の数が数百人であったので治安部隊に発砲され悲惨な姿で終わっていた。 ライプチッヒでのデモの成功には過去の事実からの学びがあったと言える。 数の力が働いたことも事実である。そして、デモ隊がリーダー達の声明に素直に従ったこと、リーダー達がデモ参加者にローソクの灯を持たせたこと、 何重にも非暴力への準備ができていたことが成功の基盤にあった。 2時間のデモが終わったあとクリスチャンフューラー牧師は「我々は数時間前とは明らかに違った状況を創り出していた。 その変化はイエス・キリストと同じ非暴力の精神に則って、しかも、成功した始めての改革でした。 流血が起きず戦闘の末にもぎたった勝利でもない、全く違う素晴らしいやり方で成功した改革だった」と言っておられる。
(4)民主革命の英雄都市 ライプチッヒ
ライプチッヒの月曜デモの影響は全国に広がる原点となった。独裁者ホーネッカーを失脚に追い込む民主化の烽火として決定的な力となった。 ベルリンの壁の崩壊する丁度一ヶ月前であった。ドイツ国民にとってベルリンの壁以上に精神的な支えになっているといわれるのが10月9日であり、 今でもその日は記念の祈りの集会がなされている。
ベルリンの壁の崩壊は独裁政権に対して非暴力で民主化を成功させた流血なき反抗の存在を歴史に示した偉業であった。
今回の放映を見て判ったことがたくさんありますが、危機的状況になって咄嗟の判断を必要とされるとき組織の伝達機能は働く余地がない。 上部に伺う時間も無ければ、下部に指示する暇もない、市民のうねりのような動きが速く、現場の状況を正確には上に伝えられない、 現場の判断によるしかないことが第二回目の放映が伝えています。
(5) 学べること
広島長崎で原爆の実験をされたわが国はその代償として非戦、非武装の憲法が与えられた。
そして平和が予想外の繁栄をもたらし、その繁栄が周りには脅威に映るようになったためか、
今では武装することが国を守ることであるという考え方に切り替えられようとしている。
武装が武装をよぶというのが人間の歴史となっていることから、その考えから脱することは困難かもしれない。
しかし、小さな島国であるが故にできることがある。それは今の憲法を守り抜くこと、それには多数の国民の勇気ある決断を必要とする。
整然としたデモ隊が軍隊の出動に歯止めをかけたベルリンの壁の史実に学べる。
必要なことは烏合の衆にならない賢い多数の人々の参加、参加できる場を作れるリーダーの出現、恐怖をのり越えられる先見性のある政策が同時的に存在すること。
経済の大混乱の後に本当に国民を守ることは何かの議論が出てくるでしょう。
愚かにも繰りかえさざるをえない言葉があります。
「主は国々の争いを裁き、
多くの民を戒められる。
彼らは、剣を打ち直して鍬とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、
もはや戦うことを学ばない」
(イザヤ書2章4節)
国連にも掲げられている普遍の理念の言葉です。日本に必要なのは武装ではなく、自給率をあげる農業政策です。 今日の餃子事件は日本人が目覚めるチャンスを与えてくれたのかも知れないと考えられる。
