ベストピア
月刊ベストピア

2007年10月号 第248号

妻の母召天

 平成19年9月29日早朝、妻の母が天に召されました。88歳の誕生日を少し前にしていたところです。 この人の人生に題名をつけることをお許しいただいたら「養母の愛」となります。多くの幼児達に愛を持って自律に向けた教育をした希有の人でした。
 私の妻は2歳の時に産みの母親が病のため召され、父は一男一女を戦後の厳しい経済状況の中で育てなければなりませんでした。 それを見かねた周りの人の勧めもあったようですが、二人の乳飲児を見捨てることができず、結婚を決意したようです。
 敗戦直後に看護婦から保健婦になって、戦争孤児の面倒を見て敗戦処理に貢献して、周りからの信望も高く晩年に至っても多くの方から慕われ、 千客万来でした。
 母が看護婦になったのは昭和13年、大阪看護学校を卒業してからのことですが、その数年前から渡辺完博士の医院で働いていたようです。 博士から「あなたは看護婦に向いている。勉強しなさい。」との励ましを受けて、素直にその道を決め進むようになりました。 同博士は1955年(昭和30年)に逝去されていますが、親交は息子さんの代になっても続いていました。
 渡辺完博士(1888―1955)は日本のレントゲン学がまだ真空状態であった頃、 全身全霊でもってレントゲン学に打ち込み「右手にメス、左手にレントゲン」との旗印をかかげて学会に貢献し、 自らは長年放射線障害に苦しみ(1915年大正4年から)、1954年には肢体障害者手帳を大阪市から交付されていました。
 この博士と共に仕事をしている母の写真がありますが、今のレントゲン装置からは想像もできない簡便な構造です。 ドイツのハンブルグ市の大学には博士を顕彰する碑が建立されています。生まれ故郷の兵庫県龍野市にも同博士の碑があります。
 母は博士の第一の助手として働いていたためか、手の甲の皮膚にその後遺症らしき傷跡を持っていましたが、 そのことについては子供たちにも一言も語っていないと実子長男の八郎君の思い出の話でした。
 第二次世界大戦開戦後は、負傷兵の手術看護に従事して麻酔のない手術にも立合い、知識と経験はその後の知慧となり、 病の判定と予防にその力を発揮しました。

 不特定多数の孤児の世話から二人の子供の養母となり、二年後には自らの長男を授かり、 子育てはそれぞれの子にふさわしく三様の態を示しています。特に女児であった私の妻の育て方には特段の配慮が見られ、 「貧しくとも、心は常に高貴であれ」の言葉がぴたりとするものでした。
 全ての人が多かれ少なかれ経験している昭和20年代前半の貧困を比較することは意味のないことですが、 心の豊かさや身のこなしの優雅をしっかり躾けた養母を私は尊敬してきました。妻もその多くを受け継いでいます。 まず、1)明るく耐える。愚痴は言っても仕方がない。2)収入の範囲で豊かに暮らす工夫をする。3)ケチケチ感は全くありません。4)今で言う5Sの先駆者、 いつも整然とし家の隅々まで輝いていました。5)原理原則を子供たちに分かるように説明して、厳しさの中に愛のあること。 すなわち愛の厳しさを優しく表現することを教えた。6)他人に迷惑をかけない。このことはこの年代の人々にはよくみられることですが、 妻の母は自律心を強調し実践された。
 以上のことは私だけでなく、直接に育てられた孫娘二人が異口同音に語っています。
 上の孫娘は「おばあちゃんと精神的格闘(バトル)を何度もした」と言います。それは原理原則を崩さない厳しさに若い者が反抗しつつも、 その愛を感じて、号泣したことがしばしばあったと言います。
 孫を含め5人の子育てを終えて晩年は地域の役員を受けたり、花道・茶道をわかり易く人々に教え、地域社会からの信頼を更に高めていきました。

生きる姿勢は凛として然りでありました。
 すがすがしく優雅で竹林の中にピカッと光る美しい生涯でした。 私はこの妻の母の洋服姿を見たことはありません。いつも和服で足袋を繕っていた姿も美しい人でした。
 信仰深い人でその道の教えも幅広く、その想いを大切に子供たちが心を込めて葬儀を執り行いましたが、 供物香典の全てを受けない徹底さを残した人でした。ご冥福を祈ります。

私の年金問題

 年金の構造は複雑すぎて、私にも理解できません。
 それに加えて政府が問題を作り続けるものですから、国民の不安と不満は募るばかりです。 若い人の中には、年金に反抗している人もいますが、年金は老後への貯金であることに変わりありません。
 私も年金をあてにしない姿勢で生きてきましたが、引退すると頼りになるのは年金だとの実感を報告したいと思います。
 60歳から年金の支給を受けていますが、当初は年間88万円でした。65歳になった瞬間に年間54万円に大幅ダウンしました。 これには私も妻も大当感をしまして混雑する社会保険事務所へ三度も足を運びました。 先方が言うには「裁定通知書に印を押して提出した」からこうなったので、それをやめると金額は増えるということで、年間132万円になりました。 私が支払った保険内容は、サラリーマンの厚生年金が200ヶ月(平均標準報酬月額は306,872円)、国民健康保険が231ヶ月、 よって保険料の支払怠納は無いということです。
 妻は国民年金を258ヶ月掛けていますが、支給される年金は36万円程度です。 二人で168万円で老後を生きなければならないと思うとゾーッとしますが、逆に考えると年金は、生きている間は支給を受けられるという強さを持っています。
 サラリーマンの平均的受給金額は240万円~360万円の幅があります。家があれば何とか終身生活できる金額です。 この水準を維持するために必要なことがたくさんありますが、政治家コストを下げない限り、将来への不安と不満は解消しません。 そのことを国民が広く分かっていないところに大きな原因があります。それと社会保険制度を国民が理解できる位に簡素化しなければなりません。
 私は税を学んできましたが、70%位は理解できています。社会保険については5%の理解力もありません。 資格制度として社会保険労務士があり、難しい試験制度になっていますが、私の感じでは十分な市民権を得ていないようです。 この年金問題を契機として、労務士さんの飛躍的な活躍を期待し応援したいです。
 この機会に是非、ご自分の年金について社会保険事務所を訪ねて、知っておくことをお勧めします。
 他人が行っても駄目です。本人にしか開示しないようです(代理申請は面倒です)。
 待ち時間が長いのは諦めて、一冊本を持参して、秋の読書を社会保険事務所でしてみてはいかがでしょうか。

長短の切り替え

 人生はマラソンに譬えられます。ひとりで42.195kmを走り続ける姿に、人は自分の人生を見る思いです。
 毎年正月の恒例になっている箱根駅伝が全国的に人気があるのは、一人マラソンでなく、継いでいく長距離リレーであり、 区間(苦感に通ず)に起きる予測できないアクシデントとその対応に共感し、殆んどがゴールインしていることが、 順位を越えて完走した達成感を疑似体験できるので、爽やかな新年の行事にふさわしいことです。
 一方100m競争は10秒の世界ですが、そこには何とも言えない「あっという間の美しさ」があり、見る人を魅了します。 瞬間に決着が付くやり直しのきかない緊張感も人は憧れを持っています。スタートダッシュでほぼ決着が付くというリスキーさが勇々感になるのです。
 長距離に向くか短距離に向くかは才能によると考えられます。人生にも短距離型に成果をあげる人、長距離型で自己実現する人に分けられますが、 走り終わってみると人は短距離で生きていた時代があっても、結局は長距離で走っていきたいと感ずるのではないかと思います。
 私は短距離には力を発揮するのが上手ではありませんでした。昭和36年から39年の高校生活のとき体育の授業でサッカーがありました。 もちろんバレーもありましたが、私はサッカーでゴールキーパーとして力を発揮しました。小さな体ですが、逆をつかれても、体のどこかでボールに接触して、 なかなかの守備をして誉められました。ただし、全戦に出ることは体力的に無理でした。
 今ひとつ私が得意であったのが、2000m競争で常にベスト3に入っていました。こんなことを思い出すのも実は初めてのことなのですが、 これからの自分の生き方を模索しているときに思い浮かんだことです。
 60代になって、短距離的に生きすぎたように自省しているのですが、すでに60代も後半に突入しましたので、本来自分が得意とする長距離型で、 かつ得意分野に特化していかねばならないと思っているところです。 しかし短距離的に生きたおかげで、たくさんの成果をあげられたので、後悔をしているわけではありません。 これからの人生に充実感を得るために、これからどうするべきかを問っているところです。
 私の得意とする分野は、賃金体系を通して人と組織の有機的なあり方を提案すること及びTA(交流分析)を用いて機能的な自己への 気づきを導き出すことです。この二つを柱にして長距離的に目先の成果にとらわれず、自分に与えられた才能を十分に発揮したいと考えています。
 具体的には賃金体系のベストピアモデルが完成しましたので航海の準備をしています。
 TAは恩師故岡野嘉宏先生の遺業の一段を担い組織におけるコミュニケーションル―ト作りを目的としたものを発表したいと考えています。
 いずれも長距離的になりますが、体力に少し自信がついてきましたので、平成20年の箱根駅伝のように爽やかに出発すべくトレーニングをしているところです。