2007年7月号 第245号
有無問答
(1)有をなを無しとぞ思うみ国かな
これはここ四ヶ月間、心に温めていた一句です。
耳鳴りの話は、いい加減ひんしゅくを買うという批判はありますが、ここから学ぶことも多くあります。
私の尊敬する医師のおひとりが、私を励ますためにアドバイ頂いた言葉があります。それは次のような話です。
「少年漫画の世界で、音のない闇の空間を表現する言葉を知っていますか?」「それは、シーンという言葉です。
私(医師)も耳鳴りに苦しめられましたが、闇にも音があるということを納得して、耳鳴りを受容しています。」
漫画とは、大胆に省略誇張してある事象を描き、笑いを誘いながら風刺や批評をこめた絵の連続です。
このシーンの一言は、無言の無限を表現しているように感じました。
耳鳴りが有ってもなを無いと思える世界はどこにあるのかなと、外に求め続けている自分、誰かが治してくれないかと、
他に期待している自分がいるわけで、他人にはうんざりする話なのです。
自分で治すしかないという良い意味での自力体願が私には足りないのです。そこで前号に記しました、呼吸法を始めています。
(2)氣海丹田はどこにあるのか
呼吸法の殆んどは、丹田呼吸法について言及しています。坂村真民先生もよくこの話をされ、大きな文字の書が床に掛けられてありました。
丹田がどこにあるかということは、多くの人にとって常識になっております。臍下丹田という言葉通りで、全身の精気の集まる所とされる。
これは東洋医学の解釈であって、西洋医学ではどうなっているのか私には分かりません。そこで又しても、
4年前に買っておいた一冊の本に偶然手が行ってしまいました。「呼吸という生き方」板橋興宗(曹洞習管長をされた有名な高僧)と
帯津良一(帯津三敬病院名誉院長・日本ホリスティック医学協会会長)の対談を本にしたもの(春秋社刊)です。
この本で丹田はどこに有るのかというような話題があります。
帯津先生「手術の上手下手は、身体の中にある隙間が見えるか見えないかなんです。 隙間が見える人というのは、その隙間通りにちゃんとメスが入っていくから何も傷つけない・・・丹田というのは、 この隙間に目に見えない気のようなものがあって、身体の中に一つの“いのちの場”というようなものをつくっているということではないかと思います。 目に見える臓器を含めて考えても、その隙間、何もない隙間が一番基本になっていると思うのです。 そしてこのいのちの場の集約されたものが丹田なのだろうと。だからこの下腹部の空間などというのは、手術してみても何もないのです。」 「丹田と言ったて何もないので、これはやはり空間のことと考えざるを得ません。 そんなわけで、この丹田という空間は、身体全体のいのちの場がそこに集約されたものだろうという感じを、 私はいつの頃からか持っていました。」(P28~P30)
板橋「隙間というものはやはりあるのですね。そこの隙間に空気が入っているわけではないのですか。」
帯津「空気ではないですね。これがなんだか分からないのです。手術をすると、切った以上、バッと空気が入りますから、 隙間は空気なのですけど、切らないと空気は入っていないのです。何が入っているか分からない・・・。」
板橋「何があるか分からないのですか。そして、それでも空間はあるのですか。」
帯津「空間はありますね。内臓というのはくっつきあっているのではなくて、いつも動いている空間があるから、動いているわけです。」
板橋「切開したときに、そこに空気がサッと入るのは分かるのですが。」
帯津「分かるというか、証拠としてはこういうことなのです。手術をするでしょう。そして閉じますね。 次の日に念のためにおなかの写真を撮ると、横隔膜の下に空気が映っているのです。」
板橋「空気はレントゲンで映るのですか。」
帯津「ええ、身体の中の空気は映ります。・・・ですがその外側、腹膜のところにある隙間で、何も映らないところがあります。 手術する前に写真を撮っても空気は映っていないのです。隙間はあるのに空気はありません。 では空気ではないとして、何かがそこに存在するのか、それとも何もないのかということは分からないです。」
板橋「手術をして入った空気はどこから逃げるのですか。」
帯津「これは腹膜から吸収されるのです。酸素と窒素ですから。これは吸収されるのですけど、数日かかります。 一週間ぐらい経つともう映らなくなります。」
板橋「ほう。しかし何かがそこに存在するのか、それとも何もないのかということが分かっていないというのは気になりますね。 ・・・腹の中に空気でもない、何でもない何かがあって、そこにいざ力を入れるとグッと下っ腹が締まりますから、それらは筋肉でもない、 脂肪でもないと思うのです。そこに交感神経、副交感神経などもあるのでしょうが、何となく自分で分かるような気がします。 ここにグッと力を入れたときの、そのグッと力の入ったときとか、あるいは落ち着くときウーンと下っ腹に何か落ち着かせていくときの感じというのは。 ですが、この下っ腹がなぜふくれるのかについて私的な見解でもいいから、水でもない空気でもない、何でもない何かがあるのだということを、 先生がおっしゃれる範囲でわれわれに分かりやすく話してください。」
帯津「たとえば肺の下に横隔膜があって、その下に肝臓があります。横隔膜と肝臓はピタッとくっついているわけではありませんから、 この間には隙間があるわけです。肝臓の下の背中側には膵臓があって、前のほうに胃袋があります。この間にもそれぞれ隙間があります。 いろいろなところにそのような隙間があります。手術のときというのは、たとえば胃がんの胃をとるというときには、 胃の周りの中の隙間をきちっと開けていけばいいわけです。そうすると胃も周りのものも傷つけないで胃だけ手のうちに入ってきます。 そうするともう危なげなく取れるのです。ですから手術ができるので、これがピタッとくっついていたら、 これをはがすことからはじめないといけなくなってしまいます。実際、長い間生きてきた人というのは、隙間がそのままあるわけではなくて、 癒着などして、本来ある隙間が見えないことが多いのです。それでも、どこかにその隙間の入り口みたいなところを見つけて、 ちょっとそこへハサミが入ると空気がサッと入るので、ペタッと張り付いていたところがフッとふくらむわけです。するとこの隙間はもう危なくないですね。 隙間が開いたわけですから、周りのものを傷つけることがないんです。そういうことを見ていると、どうもこの隙間が気になるのです。 先ほど言いましたひさご腹とか、あるいは臍下丹田に気が満ちている腹というのは、腹筋の動かし方、横隔膜の動かし方でそのようになるとしても、 やはりこの隙間というものもある程度関与している、と私は思いますね。それがどう関与しているのかというのは、今まで調べたこともないし、 調べた人もいないのです。それはいつか、誰かにやってもらわなければいけないと思っています。」
(3)隙間の謎
板橋「素人考えですが、そこに隙間があるというのは、胃やら腸やらが活動するときに、 それぞれの臓器が孤立してやるためではないでしょうか?癒着していたらみんな連動してしまうでしょう? ですが、そこにあるのが水でもない、空気でもないとなると、しかもわれわれのように下っ腹がふくれているとなると・・・、 一体その内容物は何なのでしょう。」
帯津「空気や水がないということは分かっていますが、その先は、難しいですね。」
~中略~
板橋「ちょっとまとめましょう。おなかの中には隙間があるけれどそこには何もない。丹田というのも、 何かがあるわけではなく空間というか、先生(帯津)は“いのちの場”とおっしゃいましたが、目に見えるようなものではないという話しでした。 そうすると、何もないけれど、何かいのちがある。あるけれども何もないという非常に不思議な一つの考えが、そこに集約されているように思うのです。 これは全体やつながりを見る東洋医学、ひいては東洋の考え方そのものの、何か重要なところだろうと思われます。 そのへんのところ、臨床的な側面から見たいのちの営みと東洋の考え方とか仏教との接点のところでのお話しを、もう少し先生にお願いしたいのですが。」
帯津「私がその空間というのに目をつけたのは、実は外科医をしていたときではないのです。 外科医として空間を利用して仕事をしているのに、まったく気がつかないのです。ほかの人も気がついていない。 何もない空間だから、無視しているわけです。ところが、あとで中国医学を取り入れるようになって、先ほども申し上げましたように、 中国医学というのは臓器と臓器、細胞と細胞との間のつながりを見る医学ですから、このつながりというのはどこにあるのだろう、 どういう形であるのだろうと思ったときに、隙間を思い出したのです。その隙間に何かの物理的な量、今の科学ではとらえられない物理的な量があって、 そこにつながりが網のように存在しているのではないか、と思ったのです。その量というのは、たとえば中国医学の“気”と言ってもいいのですけど、 何かそういうものがあって、そのようにある空間につながりがあれば、これは“場”ということになります。そうだ、“場”だ!ということになって、 ではその“場”にあるエネルギーがいのちということになるのではないかというふうに私は思ったわけです。そのようにいのちをとらえ、説明できるなら、 この“場”ということが大事なのだ。だからここに目をつける医学が、医学としてやはりいちばん進んだ医学ではないかと思ったのです。 すると、西洋医学はそこを全然見ていませんから、目に見える臓器しか見ませんから、少なくともそういう観点からすればあまり優れた医学ではないということになります。 私から見れば、これは機械の修理と同じだと、機械工学と同じだということになります。もちろん機械工学も必要です。機械だけ手術すればすべてよし、 という状態もいっぱいあるのですから。ですが本来的には、いのちのところの、その隙間のエネルギーを高める、 いのちのエネルギーを高めるというのが本来の医学ではないかというふうに思っているわけです。」
板橋「ほう、“いのちのエネルギー”ですか。私はよく“いのちのままに、いのちを微笑む”と言うのですけど、 いのちのまま、笑ったら笑っ太郎のまま、寝たら寝太郎のまま、と、“まま”ということにいのちの極意があります。それはある意味で修練みたいなところがあります。 これを仏道修行と言うのです。ですが、その修練や修行もいらないものだ、本来いらないものであることに気づく必要があるのです。これを悟道とも言っています。 われわれは頭の向いたほうを見れば、見ようと思わないのに花や木が見えますし、聞こうとも思わないのに聞こえるし、そうしようと思わなくても腹が痛くなったり、 いろいろなことを考えたり、笑ったりもするのです。これらは自分が動かそうと思わないでも自由自在に動いているのです。 われわれは自由自在な生命反応体だと思っているわけです。だから自分とは関係なく見えたり、聞こえたり、空腹を感じたり、 自由自在に動いているのではないですか。猫もそうだし、犬もそうなのですね。では、人と犬や猫とどこは違うのかといわれると、 人間だけは言葉を用いて後先を考えるのです。考える力を与えられたわけですね。これが文化を進めると同時に悩みも生じさせたというわけです。 言葉で考えることにより悩むことを覚えた。その悩みを解決するにはどうしたらいいかということですね。悩みの根源をとるわけにはいかない、悩みがそのまま、 いのちの実体なのです。ただ、悩みを悩みとしないことさえすればいいのではないでしょうか。“まま”ということを本当に悟れば、 先生のおっしゃる“いのちのエネルギーを高める”ことにつながっていくのではないでしょうか。」
帯津「任意という意味の自由ではなくて、いのちのままの、いのちに本来備わっている自由自在なのですね。 意から解放されているありよう、と言っていいのでしょうか。確かにそういうふうにできたら悩みもストレスもなく、 いのちのエネルギーもたっぷりとしていそうですね。」
(4)Everything is Nothing. Nothing is Everything
丹田を通じて有無について考えていますが、有るものが有るままで、無と感じられるようになるのが修業とか悟りとかに通じるのでしょうか。 無いものを無いままで有ると感じられる。これらは有や無「~からの自由」ではなく、有無「~への自由」ということに論理的にはなります。 ただ困ったことに感じるという力が人間には有る(もっている)ということです。リュウマチを患う人の痛みはその人にとっては誰が何と言っても存在する。 その痛みから少しでも解き放たれないと知慧をしぼる、これは諦めきれないことです。諦めきれないままに生きてゆくには、意欲が必要です。 意欲とは意志する欲求、これが減退してくると、必要以上に痛みや耳鳴りを感じるのだろうか。意欲は人間の意志でコントロールできるのだろうか。
